100回のため息とお花いっぱいの誕生日

 きのうは久しぶりに自分の誕生日だった。一年ぶり! うちは我が誕生日と結婚記念日が合同なので節目感あふれるのだが、今回お父ちゃんは維新派御一行様とニュージーランド公演中。記念の夜、お父ちゃんは松本座長とツーショットでバーに居たらしいが、わたしは自宅で宴会を主催。
お父ちゃんが居ない寂しさを酒と喧騒でかき消せと思い立ったが、さすがに翌日のカタヅケ物の山を見ると、ため息100回。誰かの不在について気をまぎらわすために人を集めても、肝心な人がいないと何の埋め合わせにもならないと言うことを思い知った次第であった。 

しかしながら、宴会は良いもので(ウヒヒ)、今回茶目っ気のつもりで「おプレゼントのことはどうか忘れて下さい。私は日本人でシャイで、そして誕生日のプレゼント交換は我々の文化にはありません。真実です」と嘘丸出しの冗談のつもりで書いたら、ほとんどの人が真に受けてプレゼントの代わりにお花を持って来た。
自分だけのためにもらう花としては記録的にたくさんのお花をもらって、花瓶では足りず白いホーローのお鍋に生けた。イケバナの国の人とは到底思えぬ措置である。
また一方で、遠方の友人知人からもメールにて、花の写真を頂いた。どうやら南ドイツの早春の花、東アフリカのハイビスカス。ありがたいなぁと思いつつうっとり眺める。デジカメでぱちりと撮られた写真も、昨今では本当に美しく、野の花の透明感までモニターの中で輝いている。
お鍋いっぱいの花もほんとうに色とりどりで、午後になって雨の合間の光を受けて、きらきらしてる。

病気と手術を経験してから、長〜いオマケ人生を享受している気でいるが、ここ最近面白い仕事もぼちぼち入りなかなかの充実であるものの、なぜかその充実と裏腹に、厄介でしつこい鬱ともぼちぼち対峙している今日この頃。
自然、自分の誕生日にもイライラぶつぶつ、文句とため息を垂れ流しているのであるが、長い長い宴会から一夜明けて、鍋の花に水をやりつつ、その純情な可憐さに地味に感動をおぼえたりして。ほんと、お花ってきれいですねー。


誕生日だと言うのに宴会主催者だと言うのに、内心は陰気臭い気分で過ごして、100回のため息とともに片付けを終えやれやれと休憩しながら、いつものようにふと、死んだ友達を思い出す。私の中にずっといる死んだ人達…。
そう言えば、南ドイツの野の花の写真を送ってくれた友達は、もうすぐパートナーの一周忌を迎えると言う。
お墓や仏壇に手向ける花って、すぐ枯れちゃうニギヤカシのカザリモノ程度にしか思っていなかったけれど、こうして贈られた花を抱きしめるように眺めていると、お花が死んだ人達の伝言を運んできてるような気がしてくる。それぐらい、何かを主張してるように見えてくる。
残念ながらその伝言は容易に解読できないのだけど、みずみずしくってキラキラしてることに変わりはない。
なんか、キラキラしながら、無性になんか言いたそうに見える。お花が。


みなさんありがとう、無事お誕生日、終わりました。
大原さん、市川さん、そちらでお元気ですか? 文句言いながらも、好きな音楽をほどよい音量で流して友達と呑むお酒は、格別でした。
そこに音楽があると、救われるものですね。
ぶんちゃん、もうすぐ三回忌ですね。早いね。 ぶんちゃんの分も、香音を大事にするね。
チャイナ。最近香音、アフリカ人のジェンベの演奏を観たがるのは、君のいたずらでしょう。ありがとうね。

ほんと花って、枯れちゃうからヤなんだけど、この花達は枯れるまで/枯れるほど、大切に眺めていようと思う。

みなさんありがとう。