Life is a readymade Opera.

 クリストフ・シュリンゲンズィーフ、と言うと、日本ではモンドな映画、スプラッタとかグロい映画が得意なドイツ人のカルト映画監督として知られてるようですが、昨夜、ウィーンはBurgtheater にてこの人の、非常に美しく叙情的なごちゃまぜ作品を観てきました。前衛劇という古くさい言葉でくくりたくないし、メディアミックスなんていう、プラッチックみたいな軽い言葉で説明したくもない。まさしくゴチャでマゼな、それゆえ魅力的なステージ。
非常に満足して帰宅し、床に着くと今朝方はなんと、ヤクザに付け狙われる大所帯グループの仲間と、ヤーコの襲撃に備えつつカーテンコールの練習を延々としている、という珍しい夢を見た。特に意味はないと思う。


人の話によるとこの作家は末期の癌を患っているらしく、本編でも彼と同名の「クリストフ」という主人公が癌患者として登場し作家の分身として語り、彷徨い、体験する。
作家自身の病状というあまりにも訴求力の強い事前情報を聞いて、あー、がんばってはるねんやー、観ときたいなぁと思ったのは事実で、そんな自分の動機に一抹の後ろめたさも感じつつ、でも、これほどの前知識って、どうよ、とも思ったりしつつ。


というのは、日本のニュースでも配信され続けていたが、英国版おバカキャラで一躍有名人になっていたジェイド・グッディが末期癌を宣告され、闘病生活をメディアに売り出して露出を繰り返し、そして意外にめちゃあっさりと亡くなったところで、ものすごくいやなタイミングでもあった。
彼女のある種醜悪な売り出し方・生き様はあきらかにサブカル的で到底アートなどたり得ず、高尚さもアカデミックさも崇高さも無縁な彼女が最後に、自分が財産を残すとしたらこれしかできないから、と、あえて闘病生活を特番化してもらって公開し、服役中の彼と結婚し、死ぬぎりぎりまでその身をさらした。そして一財を成した。


 クリストフ・シュリンゲンズィーフについて、末期癌であるとかもしくはゲロゲロなカルトムービーや人間の本質的なテーマへの露悪的な切り込み、アプローチ、というのを知らなかったとしたら、今回の作品「Mea Culpa ~Eine RedyMadeOper」をどう観ていただろうか。あ、いや、彼の一種のセンセーショナルな手法というのは知りませんでした。ので、これは後学。で、知らなかったので、劇中かなりの時間投影されているあらゆる映像について警戒心がなかった、というのが大きかった。虫や蝙蝠や魚もあったかな、あと特殊メイクされた人体とかエキセントリックなキャスト、抽象映像、それにタイポグラフィ、あらゆる映像がひっきりになしに使われていて、ちょっと多すぎるな、とは思った。この人映画作ったら良いのに、とも思った(笑)。作ってんのに!w
しかし、もともと映画の人、と思って観てたら、もしかしたら得意メディアに頼ってんなぁとか、場面のつなぎ方が結構ずっと一緒やなぁとか、そういうことが気になっていたかもしれない。チラッと感じたそういう感覚に、自分自身がリードされてたかもしれない。生の人間がせっかく居るのに、映像と音楽が若干多すぎてもったいない気がしたのは、作中の映像と音楽がとにかく饒舌であったからだけど、これは一夜明けて返す返す思い起こして至る感想であって、観劇中にはすっかり騙されたように引き込まれていたのだけれど。


 ジェイド・グッディのことは随分前にネットで読んで、面白いけどあまりの露悪趣味に辟易したものの、特に関心も続かなかったのは、おそらく動いてしゃべってる彼女を見たり、テレビやメディアで意に反して唐突に目にする、不本意にその姿を見せつけられる経験がなかったからだろう。
ほんの一行で彼女の所行を説明するなら、英国版ドキュン一家の寵児、といったところ。
両親はろくに働かずヤク中、躾や教育など受けてないに等しいという、ごく普通の英国家庭(苦笑)に育ち、リアリティ番組でその無知無教養、粗暴さ恥知らずっぷりを余すところなく披露。英国底辺層の象徴的な彼女を面白がってメディアは取り上げて、彼女は一躍有名人。人心とはことさら不思議なもので、目が慣れてくるとブスだけど可愛い、バカだけど頭良いと、自分が何に惹かれてるのか錯覚してしまう人続出で、彼女をセレブにまで引き上げてしまう。
本人がどんどん勘違いするのを内心あざ笑いながら面白がってちやほやしているんだよ、と言う意見も多いようだが、それがほんとならさて、本当に醜悪なのはどちらだろうか。


「Mea Culpa」はラテン語で、“自分のせい”みたいな意味らしく、欧州人に訊くと誰もが「とってもカソリック的な言葉」と言う。カソリックって、何でも神様のせいやと思ってたのに!w
美術は回転舞台を常に廻しながら展開してゆく。最初はアーユルヴェーダのクアホスピスで、湯治客の中に紛れ込むクリストフと恋人。クアハウスには老人が多く、元オペラ歌手やエキストラ、ベテラン俳優にずぶの素人などその混じり具合はなかなか味がある。患者や医者に扮したオペラ歌手が有名な歌曲やアリアを歌うが、オペラに興味も知識もないわたくしも退屈せぬ、嫌みのない程度で展開してゆく。ダイアローグはもちろん独語で、ちょっと早くなるとたちまちついて行けなくもなるのだけど、断片的な理解をつなぎ合わせてゆけば、一部始終の理解を必要としていないのは感じとれる。


っていうか、台詞が理解できないと作品を理解できないなど誰が思い込んでいるのか。
維新派を10年以上観ているが、言葉の洪水と言われるようにあふれ返って混沌とするほどの語彙をきちんと聞き取るのはほぼ不可能だし、役者も台詞を届けるために用意された人々ではない。
また逆に、台詞が極めて少ない芝居が果たして理解し易いものなのかと言えば決してそうではない。
もしくは歌舞伎の会話を、聞いてるだけで即座に理解できる日本人は現在、果たしてどれほど居るだろう。
かつて日本を訪れたジョン・レノンは歌舞伎を観劇し、まさしく感激して言ったという。
「なぜだろう、台詞も仕草の意味もまったく知らないのに、よくわかるんだ」ジョンさん、号泣していたらしい。
だからわたしは、言葉がわからないから楽しめないとは思わないし、言葉でできる理解はまぁ究極後付けでも良いと思うし、ほんとに良い役者がつかう言語がわからんでも、良い者は良い。そして、台詞表現のトレーニングに執着した古くさい芝居には、ほんとうに辟易してしまう。言霊はそんなところには宿らない。
もちろん、皮肉や知恵や知識やウィット満載のダイアローグすべてを聞き取って理解できた方が良いに決まってるたいていは、というのは当然すぎてあえて書かない。しかし会場のほとんどを埋め尽くしたと思われる独語話者の誰よりも、自分が一番作品理解から遠かったとも、決して思わない。


とはいえ台詞のいちいちに反応して笑うような忙しさもない身なので、時折ふと今朝目にしたばかりのジェイド・グッディの最期について頭から離れない。
英国の保険事情、医療サービスの現状も日本や米国同様、相当課題を孕んでいるらしいけれど、何よりも個人的にショックだったのは彼女は定期検診を受けていたということである。子宮頸癌という、比較的自覚症状が意識されにくい癌であったことに加えて、彼女は先駆けて2度3度と、定期検診で“異常なし”と言われていたらしい。だから、見つけた時には末期だった…というのである。
人生の中で、幼少時より何の努力も教えられず、ダイエットの努力すらやり遂げられず放蕩の限りを尽くしたらしい彼女であるが、それでもしかし、この運命を「あなたのせい」と、誰が言えるだろう。


おそらく事前知識を得ていなくとも、劇中随所にちりばめられた死をめぐるメタファーや時には直接的表現の羅列があり、主人公はイコール作家でその彼は末期の癌患者でもあることは、作品の土台となっている。
何をとってももう、まだ若く才能豊かな芸術家が癌を抱え死に直面してなお叫ぶように作る作品である。(実際二幕ではかれ自身が登場し、舞台いっぱいに大写しになった映像を指し示しながら、オーケストレーションとまさっしく競うように声を上げ全身で語る。演出家の登場が与える緊張感は最大限に効果を上げ、裏腹に鍛えられていない声(もしくは萎えをみせる声)がまた、その場一帯に別の緊張感を与える。)
感受性にスイッチがあるならオフにしたくなるくらい、あらゆる音色や情景、感情、エネルギーが矢継ぎ早に投げかけられる。訴求力が強すぎる。あまりにエモーショナルである。
さまようクリストフが様々な人の独白を聴き、応え、時に黙ることを繰り返し、人々は時に可笑しく、時にいらだち、時に嘆きながら語るのは、彼らもまたクリストフの分身であるかのように。
総合芸術の骨頂、とも言うべき、饒舌な表現力が洪水となって押し寄せてくる一方、我々がこんなにも引き込まれるのはなぜか。演劇好きの隣人が今日観る演目の作家の名を聞いて一言、ああ、超モダンな!と言っていたように、アカデミックで難解で高尚(であることは事実でもある)と評される作品に、どうしてこう直情的に引き込まれてゆくのか。それはほかでもない、最早死も癌も、作家が悲劇的に独占している物語では、ないからだ。
回転舞台を彷徨い、時に逆行する“クリストフ”も、その奥に篝火のように存在するクリストフも、不治の病や死という己の悲劇を抱え込んで独占することなく、さらしているからだ。
そしてわたしたちも、もはや誰かの死はあまりに日常であり、舞台の上の高尚な死を気安く見物できる今を生きていない。クリストフをみつめるまなざしが、自分を、誰かを、そしてまた彼を、三次元四次元的に重ね続ける。


 もの凄い利益を上げた若き末期癌女性のいわば御臨終SHOW を英国の、特に中産階級以上の“分別ある人々”は醜悪と批判したらしい。癌や死は、売り物にされるべきではない。と言う。粛々と死んでゆけ、と言うのか。
言うまでもなく、これまでも今もこれからも、癌だってどんな不治の病だって死だって、売り物にされてきた。有名人が死んだら本が出る。告知されたら本を書き、生還したら本を書き、再発したって本を書く。
闘病生活のドキュメントなんていくらでもあるし、映画にもなっている。
それをなぜ、彼女の件では叩くのか。一向に理解に苦しむけれど恐らく、彼女のそれはあきらかに金目当てであり(公言している)、高尚さも気高さも美しさもみとめられないハズだから、ではないか。テレビで傲慢な人種差別発言を繰り返し、美容整形と虚栄の限りを尽くし、醜悪な生き様をうんざりするほどさらし続けた彼女の、いやらしい死に様までも見せつけられたくないと言う、反発。死してなお、選別される生のクオリティ。


 壮大な遺言のような舞台上で、夢のような幻のような情景はどんどん展開して、観るものは夢見心地と悪夢の間を延々行ったり来たり、揺り動かされる。
当方のような場末の記録でネタバレに配慮するのは若干自意識過剰な気がするものの、マナーとしてラストの詳細報告は控えますが、ラストは見事でした。
物語が終焉へ向かってゆく頃から、克明にやり取りを思い出せるくらい、すんなりと胸に落ちてきたエンディング。
たいていこういった、大風呂敷を広げた大スペクタクルって、エンディングは似てしまったり無理矢理終わっちゃった勘が残ったりが多い。凄く多い。が、特にオチがあったわけでもないのに、きちんとお話を終えてくれた。ということに至上の救いを感じました。


僕は特別でもないし、何も誰も、特別なことなどないのだよ。だから、気にしないで。


クリストフ・シュリンゲンズィーフって人は、なんて優しくてチャーミングな人なんでしょうね。
長々と、素晴らしい芸術家の一世一代の作品と、英国のメディアが生んだクリーチャーみたいな女史の最後っ屁を愚鈍に書き並べて、どっちかを穢したりとか持ち上げたりとか、したかった訳ではないのですよ。ごめんなさいね。
ただただ、劇場で、ある人の描く物語に迷い込んで、彼や、彼女や、遠くの誰かや隣の誰かを、自分もそして再び彼や彼女を重ねて、思い、眺め続けたその果てに、最後のメモにサラリと言葉を残してもらったみたいで。潔く後味が良かったのでありました。それだけです。から、気にしないで・・・。


ReadyMadeOper。あらかじめ作られたオペラ。なるほどね。人生なんて、そんなもんなんでしょうか、先生! だとしたら、まぁオペラでもソープオペラでも、どっちだっていいじゃないのね。ね。




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