今週のメールより。

この週の香音の様子を日本の恩人の皆さんに送ったもの。
ほぼ毎週同報メールにて送るつもりなので、メールで読んでやろうという暖かなお心の方はご一報くだされ。


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皆さま

お元気ですか?
こちらもやっと暖かくなりはじめ、人々が一斉に街角で珈琲やビールを楽しむ姿がみられるようになりました。
香音のこちらでの様子などを、日本での彼女のあゆみにご厚情下さった方々にお知らせしようと思い、同報メールで失礼ではありますが書いてみようと思います。
長文でもありますので、お時間のお有りの際にご一読頂ければと存じます。
また、こちらではこれまでとは違い相談相手の少ない子育てとなりますので、お気づきのこと、アドヴァイスなどございましたらメールにてご助言頂けますとうれしいです。よろしくお願いします。

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香音がこちらの幼稚園に通いはじめて、一週間が経ちました。
11日の月曜から5日間、最初の二日は私が付き添い、あとの三日は内橋さんが付き添いました。待機リスト上で優先して頂いている第一希望のシュタイナーシューレ(の幼稚園)は依然「空き待ち」の状況ですので、私たちとしては一日も早く(とは言えおそらく早くとも9月以降なのですが)移れることが決まりたい状況です。
今の園は、ウィーンのいくつかあるヴァルドルフシューレでも新興だそうで、街外れにあって建物も新しく美しく、裏山に自然が豊富な素敵なところです。ただ、やはりまだまだそこはかとなく“できたての落ち着かなさ”、の様なものを感じずにはいられません。それは「新しいところ」というこちらの先入観だけによるものでは、ないと思われます。

 私が敬愛する方に、一昨年栃木で出会った英国シュタイナー幼稚園の現役教師のジャン・コールズさんと言う方がおられます。一昨年の夏、彼女の「シュタイナー幼稚園体験コース」に香音と参加したのですが、英語にまったく明るくない子どもたちを前に、彼女は決して動じることなく、いつもの手法で彼女のやり方の通りに、ほんとうにおおらかに日々の活動を繰り返されました。時には制御不能なくらい子どもたちが荒れたりする瞬間もありましたが、それでも見学している親たちにコミュニケーションの仲介を求めたり、「彼女の手法」を中断するような場面はまったく、ありませんでした。ふと「この子は今なんて言ったの?」と私に小声で問うことはあっても、彼女が提供する一貫した世界観、おおらかなムードが途切れることがないので、親としては本当に安心して見守っていられました。シュタイナーの幼稚園は「家庭のように」、先生は「お母さんのように」といった主眼をよく耳にしますが、ジャンがそこにいるのは「この子のお母さんのように」そこに居る、ということではなくてある種、超越した“まったき”お母さん、というか、ヴェテランの、プロのお母さんと言うか、もしくは総ての生き物の母なる存在、としての大木のようにそこにいる、そういった存在感がありました。かなり大袈裟な言い方ですが、でもそうなんです。
そんな先生に毎日見守られていたら、子どもたちは必ず落ち着きを得ますよね。

残念ながら、今のクラスのふたりの先生のうちひとりの方に、そういった大らかな威厳と言うか、余裕がない様で。優しいし、一生懸命だし、素敵な方なんですが、私に何度も慌ててドイツ語で指示をして、それから慌ててまた英語で言い直して自分で苦笑していたり、子どもたちにも明らかに苛立って接している様子などが見受けられ、余裕のなさを感じさせてしまうのです。そして子どもたちのうち何人かも、「おおらかに育てられている子、特有のおおらかさ」が、誠に残念ながら感じられない。もしかしたら、そういう子たちも実はこの園に最近来たばかりなのかもしれないし、親の方針が違うのかもしれないし、そこらへんは未知数ですが、少なくとも見学した第一希望の園にあってこの園にはなさそうなものを、私も内橋さんも早くも実感してしまいました。
それでも、シュタイナー園として徹底されていることはきちんとしているし、ここで吸収できることは精一杯吸収して欲しいと思って日々、過ごしています。



さてそんな中での香音です。
私と内橋さん共通の認識は、香音は結構内心で葛藤している、ということがあります。
これは先に書いた、環境として決して万全ではない今の状況とも少なからず関係してると思いますが、それとともに彼女に知的な成長があってのことでもあると痛感しています。時としてまわりの子どもたちの、いくばくかの警戒心やちょっとした拒絶感を、どうやら察知する知恵がついてきたと言うか、気づけるようになったということです。それに「にほんごじゃない」、という一大事も、以前より切実に実感しているようです。
こういった「知恵」によって、彼女がどう出ているかと言うと、周囲への警戒心であり時として攻撃であり、そしてダダをこねるであったり、するわけです。(これらは幼稚園でしか現れず、園外でこちらの子どもと過ごしてもほとんどまったく、見られません)ちょっとしたことでかんしゃくを起こしてしまったり、お友達のちょっとしたお世話を誤解して断ってしまうこともしばしば。時には気持ちのコントロールが制御不能になり、ただただ泣いて怒ると言うようなことも、いまだ日に一度くらい起こってしまいます。
もちろん終始こんな調子なのではありませんが、つきそっているとやはり閉口してしまいます。しかしそんな振る舞いに私や内橋さんが落胆したり怒ってしまったりすると、それにもまた香音はとても敏感に察知するのです。ママやパパを落胆させたことを、とても重く感じるようです。降園してうちに帰るとあっという間に安定し、聞き分けの良い、かわいい香音に戻り、そして「かのんちゃん、いい子になる・・・」なんて言うのですが、こちらが落ち着いて考えると彼女の葛藤が目に見えてくる様で、とてもいじらしいです。
こんなことを書いていると、とっても苦労しているようですが、とはいえこう言った慎重に対応するべき局面と言うのは確実に日々減ってきており、楽しげな時間、幸福そうな様子が着実に増えているのも事実です。
そのせいか日々の生活の中でダメだ、できないっ、と苛立つ時があっても、ストレスを溜め込む方向にはまだ行っていないのは大きな救いなので、そうなる前に、異文化で生活をはじめる突破口を、見いだして欲しいと思っています。


その希望とも言える、「やっていけそうなきざし」というのもあります。
例えば、言葉が違う、ということを認識できた上で、時としてコミュニケーションがとれることがあり、またそれを香音自身も実感し、喜んでいると言うことが見受けられるんです。
例えば2日目に、先生が「お片づけ」についてドイツ語でゆっくりと説明してくれた時。香音はどうやら「なんとなく」意味が解ったようでした。“何となくわかる”、ということで、まず「理解不能なことを言われた」と言うストレスが生まれずにすみます。細かいことはわからないけどきっとお片付けすれば良いんだ、という、目的意識も湧きます。見過ごしやすそうなポイントですが、実はこれがとても大きなポイントだと思います。大人にとっても、そういうものですから。
 また香音が木切れを片付けるのを先生が見つけて、ではもっとお願いしよう、と他の男の子たちがやろうとするのをそっと制して、彼等に香音の前に散らばった木切れを集めてくるよう告げてくれました。男の子たちは、仕方ないなあ、と苦笑しつつ、香音の前に大小の木切れを集め、ひとつずつ楽しげに運ぶ香音を「いっぺんに運べばいいのになあ」なんて顔で眺めていました。すると先生が、香音が運びやすいようにひとまとめにしてくれて、そっと差し出し、香音はそれらを抱えてどうにか運ぶことができました。男の子たちはそれをじっくり待ってから、テーブルを運ぶ「大仕事」に取り組んだのでした。
 この男の子たちは、このお片づけの前の自由遊びの時間に木切れを広げて遊んでいたのですが、テーブルから落ちたものを香音が拾い、遊びはじめるという場面がありました。すると男の子の一人が同じのをもうひとつどこからか持って来て、一瞬手渡すかどうか迷い、そしてそっと、香音の背後に置いて行ってくれました。私は香音に「ほら、お友達が同じのをもうひとつ、持って来てくれたよ、後ろを見てごらん」と言うと、香音はすぐにそれを見つけ、ワーッと喜んで、ありがとー、だんけしぇーん と飛び跳ねていました。男の子はと言うと、照れ笑いのようなものを浮かべて走って行ってしまいましたが。


しかしながら驚くべきことに、こっちの子たちは「ダンケシェン(ありがとう)」と言っても、なかなか「ビッテシェン(どういたしまして)」と言いません。香音が言っても、私が言っても、先生が言っても。日本では、そんなことがあると母親やら大人が飛びつくように「ほら、ドウイタシマシテは??」と“言わせる”ことが実に多いですが、こっちは逆にそれをやらなさすぎるのでしょうか。
近年の日本の(おそらく“公園社会”とその延長の)、全自動での「アリガトウ」〜「ドウイタシマシテ」、増してや強制自動での「ゴメンネ」〜「イイヨ」に疑問を持っていた私ですが、この有様には驚きました。香音なんて、お礼に返事がないと「きこえなかったみたーい」と言っていますが。
この謎は引き続き解明したいと思いますし、その一方で自発的に「ありがとう」と言うことにヨロコビを感じている様子の香音のモチベーションが萎えてしまわないように、気をつけてあげたいと思っています。


幼稚園初体験は、3年前に日本でもありましたが、今になるとあの頃は本当に赤ちゃんみたいなものだったと思います。適応力があり、天真爛漫、社交的、と言える香音ではありますが、とはいえ苦心しているようです。それでも、「あしたもようちえん、いってもいい?」「たのしかったよー」と言い、「きっと、もっともっと楽しくなるからね」と語りかけると、とても神妙に頷いたりしています。
一方、降園後や休みの日、本当に楽しく過ごす様子には強く励まされる日々です。こちらに来ても日々、日本語が豊かになっていく姿には、私たちも驚くことしばしばです。今はまだ仮住まいで、住まいが安定しない悪影響を心配していましたが、最近は窓辺に行って通りの人々を眺めて楽しんだり、玄関口で近所の人々の声に聞き耳を立て、それを私に報告したり、戸外の大きな音にびっくりして「ままー、なにかこわれたみたいー びっくりしたー!」と抱きついてきて、そして安心して笑い出したりということもあります。こちらは日が長いですし、時間にゆとりのある暮らしができる分、夕飯後になってもお散歩ができるのですが、地域にどんどん出向く、そういった楽しみ方も功を奏しているのかもしれません。


まだまだ安心できない状況が続いてはいるものの、こちらのおだやかな時間の流れ方が「気をつけて見守る」ことをさとしてくれているような、そんな気持ちの余裕を持たせてくれているようです。課題は山積みであるものの、わりとのんきに、実際は構えていると言えるかもしれません。こんな様子ですので、この報告でご心配をおかけしてしまったら、どうぞ聞き流して下さいね。

木曜には内橋さんが一時帰国します。
そこから新たな日々がスタートするので緊張しつつ、新居へ移りしばしの同居(友人母子との)など、いろいろにぎやかになりそうだと楽しみにもしています。
また、刻一刻と変化する香音の様子を、ご報告できればと思います。

最後までお読み頂いて、ありがとうございました。
皆さまからのメールも、楽しみにしております。


また、こちらの様子など、ご報告させて頂きます。
ではまた!