せっかくなので、東洋の話。

 こっち来てからふと気づいたら、我々日本人、そして韓国人中国人は「アジア人」と言われるより「オリエンタル」と呼ばれることの方が多い。日本に居たら、アジアって意識の方が強いけどね。アジアは広いし茶色や黄色や色々おられるからかもしれないが、オリエンタル、そう、東洋なのです。
で、根深いアジア人差別の問題とか、サイード先生よろしく「オリエンタリズム」の話とか、そうではなくって東洋くん、そう「渋さ」のランドマークタワー、舞踏班お頭、東洋くんのお話なのです。どうやら彼は本名らしいので、それはそれで「オリエンタリズム」。しかし良い名前だね、舞踏家になるべくして名づけてしまった、ご両親。嗚呼駄目じゃんッ、お父様お母様!


元来、plan B だって白州だって内橋さん絡みで行っただけの私、特に舞踏への特別な思い入れなどない方だとは、思います。舞踏の世界観は大好きだけど、これまでそのダイナミズムをどーんとみせてくれる公演になかなか巡り会えなかったし、どうしても若い舞踏家は身体にズンとくる重みが感じられなかったり、なんと言うか、普通の人が白く塗ってるだけ(しかもまだらに)かと思うような、軽さ、気軽さ、みたいなものが気になって仕方なかった。もちろん身体能力としての軽妙、柔軟、という意味ではなく。だから残念だったのだ。いつも。


しかしまた逆に、幼少の砌よりたまたま私は、京舞、日本舞踊をみる機会が少なくなく育ち、成人してからはモダンダンスは自発的に観に行くので、ある意味その間にある「舞踏」が何故ゆえにして「BUTO」として賞賛され、確立されたのかということにもかなりシンパサイズされるのです。土方巽やその系譜にまったく詳しくはないけれど、「舞踏」誕生への衝動と人々への衝撃、そして存在価値にはかなり共感できるというか。例えば京舞にもかなりストイックで研ぎ澄まされた流派がありますよね。素晴らしい、本当に美しい。しかし勿論そこには無いものもあって、それが舞踏にあるのはわかる。どっちも必要、私には。それゆえ私にとってBUTOというジャンルが古くなることはないのです。当分。(だから訳知り顔で「BUTOはもう終わった」とかのたまうオイロッパの阿呆に出会うとムカムカくる。おどれの国に誇るべき伝統舞踊とモダンダンスは健在か。と聞いてみたい。尋ねてみたい。玉三郎大駱駝艦ダムタイプを今日もひとつの生活の中で観ることができる日本を誇っておきたい。暫定的に)



で、東洋なんですが。
彼はいくつなんですか、皆さん? 「東洋組」という名称は数年前から聞いているのではありますが、渋さ知らズでしか観る機会がなくしかも「白い人々」の中でどれが東洋なのかも、実はずっと知らないままでしたワタクシは。スミマセン。そんな観客としてはすこぶるなまくらなワタクシですが、前回のウィーン公演とこのたびのポーランド公演でかなりみっちり満喫させて頂きました、東洋組東洋。ありがとう、東洋。東洋東洋東洋。敬愛を込めて呼び捨てです。


渋さ知らズと言うのはだいたいが逆境バンドな訳ですが、そこで敢えて、というのがバンドの命な訳ですね。
渋さの長い歴史に照らしてみたら内橋さんの参加はごく最近で(初期に何度か参加していたらしいが)、復活した頃には「なんで今さら内橋さんが?」みたいな顔されたり言われたりすることが少なくなかった。時期的に内橋さん世代のミュージシャンが多忙などの理由で 渋さ からフェイドアウト(もしくはカットアウト)しはじめた頃でもあったし、何より大味で大雑把な何でもアリのこのバンドに、勿体ないとかお門違いとか、そう言う意味で眉をひそめる人も少なくなかった。つまり、”アーティな”方々にとって”アーティな”内橋さんが、お下品な、もしくはキッチュ渋さ知らズに参加することが理解できなかった、ってことなのかな。(下品でキッチュ上等の私にとってはスノビーで臭い発想ですが。)
しかし確かに音量やらの問題で、聴かせドコロが聴こえてこないジレンマもあるし、せっかくの個の魅力が埋もれたり時にはかき消し合うようなこともある、というのが大所帯の悲しいサガでもありスネでもあると。
だからこそ、そんなところでそこで敢えて。
何でもアリやから何でもええねん。これを言っちゃあおしまいなのですね。口ではそりゃそう言いますね、大人だし。だけどそこにはホントに「何でもええねん」なんていい加減にしてる人はいないのだ。実に実に、プロ集団なのですね。何でもアリを真剣にやってるからこそ、”観甲斐”というのも生まれるわけです。


そして東洋、なのですが。
おそらく舞踏が大好きで舞踏のことを一生懸命考えてるような人には、あんなやかましいバンドで、「余白」のないところで、舞踏がちゃんと人々に届くハズない! と嘆かれてるのかもしれません。そこはもったいないミュージシャンももったいないダンサーも、皆同じなのでしょう。(逆にミュージシャン、演者に限らず時々見てられない素人が混じって「いちびってる」ことだって、あるもん。実際。)
しかし東洋、観せてくれるんですね、彼は。渋さ はたいてい本公演の前にパレードをしたり練り歩きをしたりする訳ですが、ウィーン、ポーランドとこの「お練り」でわたくし彼に釘付けになりました。内橋さんは彼を「あいつはちゃんと開いている」と評しますが、この一言に尽きるのかもしれません。呼吸してるし、眼を開いてる。ストイックでありながら、自分をひらき、息して見ている、といういのは、表現者としてとっても難しく、そして最も重要なことなんではないでしょうか。ストイックでありながら、なおかつ吸収して。インプロヴィゼーションって、こうじゃないとね。
ずっと観ていると、かなり引き込まれるけど決して、決して観る人を苦しくさせない彼の表現はとめどなくやわらかく、強くしなやかで、慈愛ってのはこういう感じのものなのかな、とか思わせてくれる。

「何を」かはわからないけど、彼は「何か」をとてつもなく深く愛していることが伝わってくる。
最近、誰かの作品や公演を観て、胸にグッとくる時って、いつもそうなのだ。
彼等彼女等が何かをとてつもなく深く愛していることがグワッと伝わってきて、観ているこっちの胸がぐっと熱くなる。
それは人を、かもしれないしゲージュツを、かもしれないし、音楽を、だったりもする。
愛を、っていうのが照れくさいのなら何かを希求しているのが伝わってくる、でもいい。
美しい。ほんとうに美しい。
日本でもっと身近に彼の公演を観ることができる人は、今の彼をどうか観てみて欲しいと思う。どうかその眼で。



ただ今ウィーンは薄曇りの真っ昼間ですが、なんだか真夜中のラブレターみたいになっちゃった。
コッ恥ずかしいからそのうちサクッと消しちゃうかもです。


コッ恥ずかしいから皆さん、今日はコメントも書かないで下さい。できれば直メールを。
メアドも期間限定で公開
(スパムが来だしたから中止です)



過酷極まる欧州ツアー、頑張れ、渋さ知らズ