もうちょっと、ファンタジーを

朝ーーー 枕元に置いていなかったのでサンタさんのプレゼントに気づかなかった香音。あとから無理矢理ほら届いてるよ!とわざわざ知らしめる不自然なメーリークリスマスである。


サンタのあのコスプレの元祖はコカコーラの宣伝素材からはじまり、貧民街の子ども達に贈り物をマメに配り続けた中世の聖人にちなんで子ども達がプレゼントをもらう12月5日「聖ニクラウスの日」の習慣がアメリカに渡ってクリスマスと合流したとか、聞いてしまうとげんなりするクリスマスの起源。結局、みんなの大嫌いなあのアメリカの、巨大消費文化の知恵の集結、みたいなものなんだものね、クリスマスって。



「過去と現在、未来永劫に渡る総ての人々の罪を償い救済するために神さまが送り込んだ運命の子、イエスキリストの暗く貧しい誕生を、貧しい人々(羊飼い)と賢者(東方の三博士)と共にひっそりと祝い喜んだ最初の聖夜を思い、祝おう」、この宗教的コンセプトは嫌いじゃない。何度も読んだ新約聖書のキリスト生誕の節は文学として好きだったし、クリスマスキャロルとかマッチ売りの少女とか、くるみ割り人形もついでに、小さい頃から「悲しさ」「貧しさ」「寂しさ」がリセットされる聖なる夜のイメージは愛しく感じていた。
だから、入信してるつもりはなくとも、正統派を経験したいとクリスマスはレストランでディナーとかより24日でも25日でも一度は教会に行くようにしていたし・・・。去年はつくし野の聖公会系の教会に家族三人で行ったなあ・・・。



香音のカトリックの幼稚園では、毎年おごそかに聖劇を発表しては「贈り物攻撃のクリスマスより本来のクリスマスを」と提唱している。結構なコンセプトだ。去年は内橋さんが駆けつけられたので「演奏のプレゼント」もやってくれた。ダクソフォンを弾いて子ども達の度肝を抜き、続いてギターソロで「きよしこの夜」を弾いたら、歌い出しそうになった子どもを先生がいさめてしまった。あまりに静かな演奏だったから、「今は聴く時よ」という意味だろう。しかし間もなく、うっとりと耳を傾けていた父母達から思わず漏れちゃったという様子でハミングが流れてきた。とっても素敵だった。全体的に質素で、しかしながら心のこもった雰囲気がとっても嬉しい「クリスマスおめでとう」だった去年。最後に子ども全員に配られた、“園長先生のお妹様”(どうやら園の重要なスポンサー的立場でもあるらしい)やら父母や園からのクリスマスプレゼントに興醒めなモノが混じっていた…というオチを考えても、それでもいい日だった。



しかし今年は、ひともんちゃくもふたもんちゃくもあって、「演奏のプレゼント」は拒否された。ここに書き残すのも胸くそ悪いくらい、大人の薄汚れた理論。
二十億光年ゆずってそれでヨシとしても、閉会後ご挨拶をして出てきた香音はまたもやプレゼントをつっこまれた袋をぶら下げていた。例の、形骸化されたプレゼントである。小さな包み大きな包み、4つくらいあっただろうか。
形にも残らない音楽のプレゼントは「華美」と言い、低額なドラえもんの、大量生産丸出しのおもちゃはOKらしい。勝手な論理に聞こえるのは私だけか。
手ぶらで良かったのに・・・。ひとつくらい、手書きのメモでも良いから手作りの物がないものか・・・。袋の中を見てため息が出てしまった。さいわい、香音は貰った物をがさごそチェックせず、気になって仕方ない今年最後に届いた「今月の絵本」に夢中だったので、あえて「お妹様や園や父母会からの贈り物」を見せなかった。

だって、「贈り物攻撃のクリスマスより本来のクリスマスを」って、教えてもらったからね。



クリスマスツリーの下にわらわらとプレゼントを並べて「お預け」にして、クリスマスの朝には枕元のサンタさんからの贈り物に歓喜し、居間に降りたらパジャマのまま嬉々として、ツリーの下に「寝かせていた」プレゼントの包みを開く。あと数年したら「サンタさんは存在するの?」と子どもに質問されることにハラハラして答えを探す。サンタを否定する子を夢がない、なんて嘆き、自分は信じてないくせに子どもには一年でも長く信じさせてやろうとする、サンタが踏み絵になって、無邪気とか子どもらしさのゲージにさえなって! 
これってほんとにファンタジーなの???




来年の内橋家に提言。

アドヴェントの頃になったら、香音と一緒にイエス誕生のストーリを紙粘土とかでフィギュアで作ってみよう。(とっても素敵な木彫りや素焼きのセットが売ってるけど、高いしね)馬小屋に飼い馬オケの赤ちゃんに父母、羊飼いたちに子羊たち、三博士やそうそう、ガブリエルと天使達。キャンドルなんかと一緒に、お部屋に飾って、フォークロワとして「おはなし」を聞かせてあげよう。「素敵なお話ね、キリスト教徒達はとても大切にしているお話よ。ほら、教会でみんな一生懸命お祈りしてるよ」なんてね。そしていつもよりちょっと改まった感じで、家族の誰かの誕生日みたいな夕餉を、家族の誰も誕生日でないのに囲もう。
目覚めたら枕元にプレゼント!って言うのはイヴェントとして楽しいから、この日はそれをやってあげよう。でも「良い子にしてたら」とか条件はつけない。サンタさんに「手紙を書かせる」こともしないぞ。「パパとママが相談してサンタさんに頼みます」と言う。サンタさんの存在を親が背負ってみるのだ。そして最後まで責任もって背負ってあげるの。「パパとママは信じる。だって毎年、サンタさんの協力を得てプレゼントを用意している。毎年プレゼントをご用意できるのは、彼のお陰だ」。これなら言い通せる(かなあ?)。
私は目覚めたらプレゼントが有った、というのは実はまったく経験していない。
親がやってくれなかったのだ。そういう習慣を知ったのも、たぶん小学校中学年かそれ以降だった。京都市とは言え、田舎である。残念さはちょっとあったと記憶する。モノが欲しかったというより、ないものをあるように演じる子育ての中の遊びを、たぶん我が両親(母)はできなかったんだろう。余裕と性分、両方の関係で。そこが残念。
なので、「サンタさん」なんて言う共同幻想に頼らないで、親がファンタジーを演じるのだ。あなたの夢を育もうという大切な子育ての中でのまじめな遊び。



近隣ではギラギラのジャラジャラに屋外装飾が競われている。先日、レオン君母子と香音と四人で夜ちょっとだけドライブをした。「悪趣味な電飾デコレーションめぐり」である。まず香音が最初に、「うわあ・・・コンサートみたい・・・」と、ぽつり言った。きれい!とか、感嘆した様子はなかった。その姿にホッとしていたら、車に乗り込んできたレオン君は悪ガキ風に「へんなのお!」と騒ぐタイプ。意気投合した我々は、「あの飾りはやり過ぎ、これは変!」と、厳しく品評して廻った。もちろん、なんでもケチ付ける子どもになって欲しくはなかったので、「半分くらいなら良いのにね」「これだけだったらきれいなのにね」「これはやり過ぎだね」など、なんとなく「良いものもこの世には有る」というのを前提に、しかしほとんどをケナしてまわった。それでも実にレアでは有るが、レオン君がぽつりと「ぼく、これは好き・・・」と言うモノも有ったりしたのは微笑ましかった。悪ガキ役に徹せない、ピュアボーイである。

その日以降、香音はいつも、クリスマスデコレーションには「まま、みて!」と反応するようにはなった。装飾が多いヴァージョンには必ず「木がかわいそうねえ」と言い、時には「お家がかわいそう」とも。「あんぱんまん、いないねえ」とも言う(笑)。アンチ魂だけ育むのも危険なので、「あれはきれいだね」という指摘もしてあげたいんだけど、・・・なかなかないんだよねえ・・・。
すべては勝手な、親のさじ加減なんですけどね。




■今日の45Rpm
私が「これなら…」と思ったロングコート。内橋さんは「似合わないけど欲しかったらどうぞ」を連発。ひどいアシストである。そして彼が薦めるのはいわゆるピーコート。45Rpmらしいアレンジは有るとは言え、まぎれもないピーコートである。ピーコート・・・。そして年明けのバーゲンについて聞くと、こんどは子どもを見ていてやるからその日にしろと言う。大阪人だ。45Rpmのお兄ちゃんは良心的に、バーゲンに殺到する人ごみと地獄絵をやんわりと説明してくれるが内橋さんは容赦ない。かくして、妻に捧げるクリプレの申し出は、候補品への酷評と半額セールへの誘惑に泡となり消えた。まったく、ロマンのカケラもありゃしない!


ま、クリスマスの晩ご飯を、作り過ぎて家族を気持ち悪いくらい満腹にしちゃう私も同罪ですがな。
来年はもうちょっと、ファンタジーを。