遅れて登場、4月30日。

今日で4月が終わると言う、30日土曜日夜9時過ぎです。

いまだ申し込んでるプロヴァイダーがのらりくらりなのでネット環境は整っていません。大阪のナンシーとメールを交わしてるうちに気づいたのですが、日本の人間関係から離れていて何がいちばんざみしいかと言うと、会わない、話さない、というよりも近況が聞こえて来ない、ということかもしれません。実際、日本にいても友達と大した用件なくしょっちゅうでくわしている生活というのは随分していないし(子ができると、ね)、「どうしてる〜?」なんていう呼びかけに付き合ってくれるほど皆ヒマではないはず。でも誰かと会う、電話で話す、家人が会ってくる、などで否応無しに人々の近況が更新されるってことが、実はとても頻繁だったんですね。ネットも繋がらず、気軽に国際電話することもなく、という状態は、交流関係の情報が更新されない、これって静かですよ。この静寂を寂しいと呼んでみたり、する訳ですね。

しかし静寂というのはそれはそれで有難いもので(それが寂しさの賜物であったとしても)、そこから生まれるものもあれば恩恵なんかも、しっかりと享受できる訳です。最近毎日かなり歩いておりまして、そしてひとりで考え決めることがすごく多くって。当たり前ですが、いちいち内橋さんに相談できないからもうちゃっちゃと一人で決めざるを得ない。同じ境遇に居る人がまわりにいないから、いちいち誰かに相談せずにちゃっちゃと決めちゃうしか仕様がない。そんなこんなで用事もそれなりにあるのでわりと頭の中も忙しいのですが、それでも未知の言語の中に居るので、かなり「考え事」も深みにはまる傾向にあります。というのは、わたしが今取りあえず使える言語は日本語と英語。この街にあふれる会話のほとんどがドイツ語だから、どう頑張っても日本語と英語の世界はとても狭い。またもちろん、話す相手によって日本語、英語を随時スイッチしてるのを日がな一日連日くり返しているので、結構疲れるしこのおしゃべりな私もおそらくしゃべってる量が減り、内容もダイエットしてるんじゃないかな。考える内容は時間もあるからどんどんふくれあがってるけど、ひととのコミュニケーションは凝縮気味で、アウトプットと言うか吐き出し量激減。どんどん思慮や意識が濃密になって、そういう状態は生まれて初めてなので面白いともいえます。
ああ、拓(半野田)が「違うところへ行くねんから、面白ないワケがない」というのは、こういうことだったんかな。
ありがとう、拓。


こちらで会ったある方が、夫がオペラ歌手で旅が多く留守がちで、この先もずっと「待ってる」時間が生活を支配すると思うとやってられない、と煮詰まっておられました。
確かに、そういう苦しみ方を、私もついこの間までしていた気がします。この方と非常に共感したのが「シングルマザーを心から尊敬するけど、シングルマザーに成るつもりではない。そんなつもりで婚姻も出産も、私はしていない。でも実際の生活がシングルマザー同然であると、ならばいっそシングルマザーに成った方がいい、という一面も必ずある」ということでした。

で、こっから先は私のできたてほやほやの見解なのですが、マザーはほんとは、皆シングルなんですよね。シングルシングル。もちろんパパだって。
この自覚をしてないから、パートナーに依存するし不満もたまる。ふと、まったく別の”よくできた“パートナーを夢想してみたり、何してもらっても足りない足りないと苛立つ腹立つ。
子育ての負担と言うけど、ベビーシッターが何人いたとしても結局は逃れられない「母」としての役目、みたいなものを数えてしまうんだけれど、ほんとはそれって「自分はこの世にいなくても良いんだ」と思わなくって済むという、実は、例えば自殺志願者からすればきっと神からの救済、とでも言えるほどの自己存在価値の確認の機会なのに。



こんなことこんなとこで書くまでもなく、人間は皆一人でとっても寂しい存在。だからこそ、つがいを求め家族を構成してみたり、群れてみたり。(最後のはかなり無用ですが。ね、稲田くん)しかしどんなピッタンコのパートナーでも家族でも、「わたし」の中に入ってきて心の傷に手当てしてくれることもないし、そして反対に誰も「わたし」の中に侵入して邪魔することはできない訳で。

夫婦は所詮他人、とは言わない。言うまでもなく他人以上の関係を築いているし、肉親でも太刀打ちできない絆を築けるから。でも、例えばそんな内橋さんでも助けられないことがあるとしたら、それは頑張って私が自分で克服するしかないんですよね。そんなん、家事や子育ての分担、なんて金と人力でどうにか成るようなレベルじゃないですよ。私の場合はコンプレックスの克服です。その繰り返しです。
私だけじゃないと信じていますが、人間コンプレックスが複雑に絡んで人格形成してると言って過言ではないんじゃないでしょかね。なんかそれをひもといてほどいて、ちょこちょこちょこちょこ克服して歩いているような気がします。しかも同じようなコンプレックスを、何回も何回も、まるでシリーズ物のように違うバージョン、違う局面で克服し続けているようなものです。すべてが終わる時に大往生が待っているならそりゃとっても素敵な人生なので、できれば間に合うように健康で長生きしたい、というほどです。じゃコンプレックスというのは人によっては「夢」と呼んでるのかもしれませんね。そういえばドイツ語で夢は「トラウム」といい、そう「トラウマ」と語源が重なる様です。怖いですね。


達観した人ならはじめから、私がこうしてまいまい考えちまちまつぶやいてるこんなことはすべて精神的自立の話であるとお気づきで、できる人は最初からできてるのかもしれない。でも私はそれこそを、何回も何回もいろんな経験を通して試み、不完遂のまま34歳まで駒を進め、やり遂げるためにここまで来たのかもしれません。ウィーンまで。
私が私の人生を歩むのを、パートナーが支援しているのだ。
そう思えば、実感できれば、「〜をやってくれない」「ココに居てくれない」、なんて思わなくてすむのですね。
そうなると、自分が自分の人生を歩むためにひとりになる、なんていうのは勘違いで、はじめから誰もが自分の人生を歩んでおり、「わたし」の中に家族すらパートナーすら入って来れない限りは、侵害されているということも本当はないんですね。ということで何事も自分次第、と言う、誠に愛想のないお答えをもって、総ての人生相談の落ちがつく訳です、ええ。




すみません、よくわかりにくいですよね。
今日は土曜日。香音とゆっくり朝寝して、遅い朝ご飯を暫定的同居人(7月まで)のアダ&エリザベツとお昼過ぎまでかけて食べ、アダちゃんと香音が遊んでる間にその母エリザベツと子育てや教育についてちょっと話し合ってみたりして、そのあと久しぶりにエッケんちでネットに接続させて頂き、子育てと音楽に真正面から取り組みなおかつ己から決して逃げない稲田誠の日記に感服し、久しぶりの文子さんからのメールにお元気そうな母子像を拝見しほっこりと感慨にふけり、文章くんのメールに癒され、梅田くんの日記からビタミンを得、そして由香さんやのりこさんらと真摯な会話を重ね、最後に由香さんに誘われるまま公園でバドミントンなんかして、なんとも有難い快晴の土曜を享受したので上記の様な心境を書き留めた次第。