めちゃがんばってます、ドイツ語。

この歳にして、今更ながら外国語をイチから初めて苦闘している訳です。

私が行ってる学校は、毎月一ヶ月ごと更新に成っていて、私は5月からはじめたところ。
完全な初級の一発目からはじめました。
アブソリュートビギナーズです。イェー。
月曜から金曜、9時から12時までみっちり週15時間。
インテンシブコースですよ。所謂。
授業は97%ドイツ語。日にひとつぐらい、先生がぽろっと英単語を言いこぼしてしまうのですが、基本的にはすべてドイツ語でやる、というやつです。

クラスにはきっと日本人婦女子がいっぱい・・・と思いきや、10人あまりのクラスには日本人は私と、ウィーンの大学病院へ研修に来てるおっちゃんの2人だけ。
あとは多い順に韓国人が4人、中国人がふたり、トルコ人が途中から増えてふたりに成ったもののひとりは来なくなって一人、あとはフィリピーナ、タイ、ブラジル、キューバからそれぞれ一人ずつ。
もう15年も前になる、イギリスへ短期留学に行った時は、韓国人留学生は一人も居なかった。
中国人も香港人だけだったけど、今のクラスメートはふたりとも本土から来ている。
そのうちのひとりは北京の若い子で、典型的な小帝子、だっけ?、「一人っ子政策」の申し子である。
派手な身なりで苦学生の影は微塵もない。
かといって富裕層からやってきた、ということではなく、両親と祖父母の「投資」と「期待」を一身に受けておられる訳である。すでに1年以上こちらにおられるが、ドイツ語は私とどっこいどっこい。遅刻やお休みも多く、まぁ普通に気の抜けた学生さんである。これが北京の若い子の現状、なのですね。

三者三様、成らぬ四者四様、なのが韓国人。
その中で私は14歳から14年間近くイタリアに住み、昨秋からウィーンに移ってきたヨーロッパ育ちの韓国人と仲良くなった。27歳、私より若いけど、とってもしっかりしているのはイタリアでずっとずっと一人暮らししてきたからかもしれない。イタリアで声楽の勉強をしてオペラ歌手に成ったのだ。ローマにずっと居て、オペラ歌手としてのキャリアも積み上げてきたけれど、閉塞的なイタリアオペラ界に見切りを付け、単身こちらに来たと言う。

初級コースで勉強するのは久しぶり。
英語を勉強した時はどれくらい初級クラスを繰り返したかなあ・・・。
(今思うと、初級を繰り返したのは色んな先生の英語導入指導を受けられた訳で、結構その後の進展に役立ったと思うのだけれど、今からそれをするには何よりお金がかかっちゃう。)
しかし日本で日本人ばかりで英語を勉強した時と違って、英語も怪しいクラスメイトと予備知識のない初級外国語をいっしょに勉強するのはなんとも可笑しい、コメディでもあります。
勉強とともに、人間観察もかなり面白い。いやこれだけでも3時間を満喫できるくらいである。ただそれに集中するとドイツ語が身に付かないから程々に好奇心を抑えてこらえなくちゃいけないんですが。これも葛藤。しかしこの楽しみは、中級、上級学習者には楽しめない醍醐味なんです。インテリジェンスを共有できたら、できない楽しみです。
授業中はたとえ英語が使えても、英語禁止!と突っぱねられちゃうのでもう、数えるほどの独語単語を駆使して必死で質問やら要求を訴えるさまはコミュニケーションがもう人間性むき出しでプリミティブになって、可笑しくも「その人」が見える。
しかし勿論その人の「総て」が見える訳ではないから、勝手な印象や誤解が増大することもあるのでわかった気にはなれないのだけれど、それでも3週共に過ごし授業が進みはじめて、少しは「言えること」が増えてきたらば、人間関係がそれなりに生まれはじめる。誰もが少しのドイツ語を必死で動員しはじめ、それぞれのキャラがよく見えはじめるのだけど、まだまだその動向はプリミティブ。少ない言葉でする自己主張って、かなり濃密な自己アピールに成るわけで、ま、これが「ブロークンの迫力」な訳ですね。


九州から来ているおじさんは、一見、典型的な日本人中年男性に見えた。すこし日本語で話すと物腰の柔らかいアタリの柔らかい人で、「話せる人」なのかとちょっと思ったんだけど・・・。授業で趣味を訊いたり週末の話をしたりするようになると、「趣味はまったくありません」「週末は何もしていませんでした」などなど、出てくる表現は耳を疑うほどステレオタイプの日本人男性像! 授業の中でも、自分の質問はしつこくするくせに他人の質問にはあからさまにイライラしたりして、眼を疑うほど典型的な日本のヤなオッサン! ステレオタイプって、居そうで居ないと思っていたけどやっぱり居るんですね。西洋人諸君、君等の頑な思い込みは正当でした! 

はじめはもじもじして人が教えてくれる答えを繰り返していただけの中国人のご婦人が、後半に入ってぐんと力をつけて、密かに授業をリードしはじめていることに気づいた時はもうココロから尊敬! 日々の努力が身を結ぶ、という真理を地味に見せてくれた。

フィリピンからのおばさんは、マニラの歯科大を卒業して歯科衛生士をしていたとかで、立ち居振る舞いも上品でいつも微笑んでいる。でもちょっと威張っていて、隣に座るとやたら教えたがるし、英語すら「フィリピンでは小学校からずっと英語をしっかり勉強してるのよ」と標高2000m から見下ろされてしまった。日本人が嫌いなのかなと思ったりしつつ、辟易してもう隣には座らない様にしたんだけど、先日彼女の隣に座ってるタイ人から「リリベスはビザの問題があるのよ」と教えられた。他人事ではなかったので心配すると、20日でビザが切れると言う。フィリピンからは観光では一ヶ月しかいられない。働きたいの? と聞くともちろん、と言う。自分の窮状を訴える勢いに圧されつつ、嫌われてるのかとさえ思ったそれまでの高圧的な態度が、彼女の不安や切実さの裏返しであったことに気づいた。
きのう、いつもより消沈した様子で、先生への反応も精彩を欠いていた彼女は心ここにあらず、という様子だった。授業のあと、とぼとぼ歩いている彼女を見かけて、あ、とその日が20日であることを思い出した。目一杯大きい声で笑いかけながら、「take it easy, 誰も殺しには来ないよー」とおどけて肩を抱くしかできなかった。like a rolling sotone を絶唱したい衝動に駆られたもののちょっと歌詞が難しいので(苦笑)、「ケセラセラ」のしかもサビだけを唄った。「それはちょうどいい!」と彼女は笑った。「あいんまるびって!」もう一度お願い! と何度も私に唄わせて笑った。しばらく一緒に歩きたかったけど、携帯を持っていない内橋さんと約束してたから、つらい気持ちで彼女と別れた。別れ際、すこし長めのハグをして、「びすもんたっぐ!(また月曜にね)」とお互い繰り返した。何度も、何度も。



人間は、言葉が通じなくってもスマイルや気遣いでコミュニケーションをとれる。共有される言葉のない世界は思いのほか豊かで美しい。でもやっぱり、誰にも一抹の知性はある訳で、言葉はその共有に活躍すると。けど、言葉を無尽蔵につかえる様になるとどうだろう。言葉のない世界の厚みや温度を、すっかり忘れてしまうんじゃないか。思い出すのが難しくなるんじゃないか。
久々に外国語の勉強をはじめたのはとっても楽しい。
ことに、その外国語が未来の共有言語に成ると言う外国人とのかかわりは厄介だけど面白い。


いやしかし、タイトルとは裏腹に、まるでもってまったく勉学に集中していない様ですが、それなりにがんばっているのですよ、それなりに・・・。