七夕にテロ

 犯人一味が七夕を知っていたかどうかは知らないけれど。

 今朝、ドイツ語学校で先生が「きのうイギリス、ロンドンであったことを知ってますか?」
なんとその時点で私は知らなかったので、“ああ、オリンピック招致のこと?”とか思っていたらテロだった。テレビも無いし、きのうはネットのニュースも見てなかったっけ・・・? クラスメイトは外国人な訳だから、情報源はお互い限られ、そしてさらに限られた語彙の中で言えることを言いつのる。テロがあった、何百人もの人が負傷した、とのトピックが交わされたけど、私は沸々と不快な気持ちに苛まれた。
まず、自分が知らなかったと言うこと。恥ずかしい、それに悲しい。しかしまぁ仕方ないと自分に言いきかせつつ黙っていたけど、それでも沸々と不愉快になる。なぜだ。先生が笑っているからだ。もちろんゲラゲラ腹を抱えてるわけではないけど、いやぁ、大変でしたねぇ、と、先月スイスで大停電があった時の話っぷりとさして変わらないのだ。語彙を増やすためのトピック以上でも以下でも、なんでもないかのように。

残念ながら、ここウィーンでの温度なんてそんなもののようだ。もちろん私が異邦人なので、ウィーンッ子たちの微妙な温度変化を察知できないでいるだけかもしれない。
ただ、クラスでトルコ人男性とイタリア人男性が思わず発した言葉が印象的だった。
ト「インターネットでたくさんの情報を見た。そして自分のまわりのトルコ人の意見を聞いた。それによると、今回はアルカイダの特徴が無いと言う。もしくはイミテーションだと言う。僕にはわからない、だけどアルカイダではないと思うのだ。これはイギリス国内の、ヨーロッパの中の問題だ」
おそらく、強調したかったニュアンスは少しずれているのだろう。成熟した、頭の良い人だし、彼が読めるニュース解説だって、おそらく日本で伝えられる単純化された中東のニュース/情報網などとは違っているだろうと思う。そうでもやっぱりアルカイダと違うと思いたがっている、と言う印象は拭えないし、もともとアルカイダの存在感が彼等と私では違うのかもしれない、やはり。
テロリストのグループはアルカイダだけではない、ぐらいは私も言えたけど、アメリカ人も居るクラスで「英米を憎んでいるグループ」とも言いたくないし、イスラム過激派、は言えない(英語でも知らない。単刀直入オペラ歌手ベティは休んでいたけど、居たら絶対なんか言ってたな)。
ただ、「ヨーロッパの中の問題だ」と言ったのはちょっと気になった。このコースで以前会ったトルコ人に「トルコはヨーロッパですか?」と先生が聞いたら、ちらっと考えて「ヨーロッパです」と言った人がいた。それが多数なのか少数意見なのかどうなのかわからないけど、EU入りを狙う国家であるし、国民意識も賛否のみならず微妙なのだろう。
「ヨーロッパの中の問題だ」と言った彼は、自分の発言から緊張感をかき消すために「オリンピック招致に負けた国がはらいせにやったとかさ」なんて悪い冗談を口走っていたので、彼の「ヨーロッパ」は西ヨーロッパ、かつてのEC諸国程度のことなのかもしれない。とはいえそれでもベルリンはイスタンブールに次ぐトルコ人人口を抱える都市だというし、トルコ人はヨーロッパ中にうじゃうじゃ居る。社会を形成して経済の一端を担い生活している実際を見れば彼等もヨーロッパの人々だ。EU加盟国は憲章制定で混迷してると言うが、その中で市井の人々も混迷している。社会が見えない、全体像がつかめない、その先になるものなんてさらに考えられない、そういう時なのだろうか。

イタリア人の学生が「イタリアは次ぎのターゲットのひとつだと言う。とても心配だ」と静かに言っていた。それはおそらく「アルカイダを名乗るテロリストグループ」からの犯行声明文にあった文言を言っているのだろう。彼の困惑の表情はひかえめゆえに切実さを感じさせたんだけど、それでも彼は先のトルコ人の発言には反論しなかった。隣に座っているアメリカ人学生も黙って聴いていた。トルコ人も、イタリア人もアメリカ人も、バックグラウンドが違えど皆とても勉強熱心だ。みんな、英語やドイツ語以外に使える外国語を持っているし、向学心旺盛。おそらく私が知り及んでいる世界情報なんてたいていご存知だろう。七夕テロの話題が大きな議論にならなかったのはなぜだろうか。決してドイツ語が窮屈だったからだけでもないだろうし、無関心だったわけでもないと思う。先生みたいに微笑みを讃えている人なんていなかった。それでもむなしく、母国が次ぎのターゲットと言われて青ざめる者の言葉は空しく、初級ドイツ語クラスの授業に消え流れて行ってしまった。
みんな、数ヶ月後の大学進学や就職、生活、もしくは「外国人同化政策」対策などなど、それぞれに切実だったり真剣な動機を持ち合わせてクラスを共にしている。中には「ご遊学」の吾人もおられるが、今どきのご時世にノンキな時間を過ごしてしまったツケは誰だってのちのち払うもの、遅かれ早かれ遊学組もいつか自分の人生と対峙せねばなるまい。こうして誰もが遠くない未来と格闘するように今を生きているし、このサボリ屋の私が一日もサボれないほど授業はタイトで濃密だけど、それでも、5分やそこらのおしゃべりで完了してしまって、本当に良かったんだろうか。ドイツ語習得という同一かつとても淡い共通目的を持ち合わせた、15カ国もの異国籍者たちが巡り会わされた縁の中で経験している事件なのだぜ。


きっと、これがあの911だったり、スペインの311直後だったらもうちょっと違ったんだろうな。
誰もがあれから考え、きっとそれぞれの居場所で発言してきたんだろうけど、あれからどうしようもなく時が流れてしまって、怒ることにも話すことにも疲れてしまったのかもしれない。それぞれのお国事情は計り知れないけれど、あまりにも大きな歯車が世界を転がしていいて、私の清き一票やシュプレヒコールはなんの社会性も持たなくなってしまっているではないか。私だって、そんな「やるせない事件疲れ」を自分に感じるし、おそらくクラス中の人がそうなんだろうし、そしてこの15カ国の最小集合体のこの場は、フラクタルに大きな集合体や社会ってヤツの縮図であるのかもしれない。でもいけない。考えることに疲れてはいけないはずだ。


このトルコ人はそこはかとなく「兄貴キャラ」で、自分の職場である実兄が経営する小さなバーにてクラスパーティでもしようじゃないかと言い出した。イタリア人は真面目で繊細そうだしアメリカ人は聡明な青年だ。以上二枚目三人衆と様々な若い衆、それぞれに賢明で麗しい女性陣(私もベティも含むのだ!)、イイ感じのおっちゃんおばちゃんなど(こっちに含まないぞ!)、今度のクラスはかなり魅力的な雰囲気である。これからの日々で、もっと場があったまるといいな。そして、人々が宗教とか思想とか人種とか出身とかで断絶するような、そんなことだけは絶対に拒否する、ということで繋がれたらいいな、と思う。


ここは一種の外国人学校であるわけで、何かと人々のお国自慢を耳にする。南欧南米、トルコ人にその傾向が顕著だ。あまりにも「おらがトルコでは〜・・・」と聞かされ続けてると「あたしゃトルコ博士に成る気はない!」と叫びそうになるし、リゾートな国への憧れが時にはねじれて「そんなだから君の国の経済は破綻してるのだ!」と言ってやりたくもなる。しかし思うのです。私たちが宇宙へ出て、銀河の外のどこぞの異星人にまぎれて生活するようになったなら、私もあなたも彼等も誰もが、各国全世界のことを自慢するようになるでしょ。「私の星は、ほんとに美しいんですから。私の星にはイタリアという美しい国があって、私の星のアフリカの砂漠の星月夜もほんとに美しい。私の星の南の海は深く碧く、北極の氷山は・・・」