望郷の街、ブエノスアイレス(1)

kaekae2005-10-30

 そろそろと、旅の概観を眺めてみたいものだけども、デジカメに収まった写真を見ても、脳裏でまだまだ生々しいあの風景やあの光景を撮り漏らしていることにガッカリするばかり。そのかわり、手持ち無沙汰な時どきに気易く撮ってみた場面、そのまま忘れてしまっていたその瞬間が、思いもよらずきれいに切りとられていたりしてちょっと驚く。

ここに並べてみる写真は、ラ・ボカというブエノスアイレスの小さな港町で、イタリア系移民が最初に降り立った地として知られる。ほんの小さな一角は、いつからか知らないけどトタンや浪板、木板で継ぎはぎのように建てられた小さな建物が象徴的で、ガイドブックやお土産物の絵、ミニチュアなんかでもお馴染みのようだ。それらはどれも、メキシコのかわいい建築みたいにカラフル。その小さな一角も、今では雑貨屋とカフェが溢れている。つまり観光客目当ての店で。たどたどしい英語で客を引くカフェは、冷凍食品を駆使してすべての郷土料理を供し、わかりやすい選曲の生演奏でタンゴが聴ける。メインストリートに面して、一番立派な店構えのカフェは見るからに観光地的だけど、昼下がりのこの時間、我々初心者にはこれでイイのだと思って陽の下の席に。私たちが表にすわると、店の入り口でバンドネオンを演奏しているバンマスらしき爺様が店の奥に何やら声をかける。爺様の相棒はアコギのチンピラオヤジ、アンプを置いて爺様と入り口をはさんで座って演奏している。ふたりは唐突に次ぎの曲を演奏しはじめる。息を合わせる様子もなく、目配せすらしない。サササッと急ぎ足で店の奥から現れた二人は若いダンサーで、衣裳もメイクもばっちりのタンゴダンサーだ。昼間っからご苦労さんなんだけども、若い二人はきっと、こうしてバイトしながらダンサーとしての修行をしてるんだろうな、と思わせる真摯さが少しだけ感じられた。曲の合間、客に写真のサービスをする時だけ、ふたりとも「観光地のバイトの顔」になっていたけれど、数曲ごとにバンマスの爺様の指導を受ける時のふたりの顔は、なんだかとても懸命だった。
おそらく大家族が総動員されている給仕たちはなぜか皆私服でラフなんだけども(さながら盛夏の「海の家」みたいだった)、演奏者二人どちらもが、奏でながら時々給仕と会話する余裕。それでも、音の分厚さにチープな軽さがないから、聴いていて飽きない。初心者は。
 通りをはさんだ斜め向かいの店でも、同じように店先で演奏者とダンサーがいる。そちらはギターが二人で、ダンサーは複数交代している様子だった。そっちでは誘われた客がこちらの店より気軽にタンゴに初挑戦していたし、演奏の合間にギタリストがやたら営業トークしていた。つまり、音楽もダンスも、つまんなかったんだと思う。


 ほどなくして、香音が「こどもがきた、おともだちがきたよ」と言う。見ると、10歳くらいのぽっちゃりした男の子が、うちの店のチンピラギタリストの横に立っている。あ、いや、チンピラギタリストはうちの父ちゃんのことじゃなくって店のバンドのね。
 このギタリストは、ぺったりと油でなでつけた髪と薄い口ひげがそこはかとなくふらちで、ギョロ目とくわえ煙草が素敵に下品。まるで音楽漫才の若き師匠みたいだ。そんな様子で、時どきまるで退屈しのぎのように小難しい「おかずフレーズ」を演奏に挿入するのだ。見ている我が家のギタリストもニヤニヤしてる。なんだか楽しい。そばに立ちすくんでいる軽肥満の少年は、音を途切れさせることなく煙草に火を点けたりくゆらせたりするうちの(店の)ギタリストに、ほとんど魅了されて見入っているみたいなんだけど、うちの(店の)ギタリストはちらりとも目をくれない。あとで散歩してわかったのはどうやらこの少年、二軒ほど隣の家の子らしい(正確にはトタン塀の隙間からガレージが見えただけで、その向うに長屋があるみたいだった)。少年は、ギター芸に魅せられていたのかもしれない。でももしかしたらただただ、男の煙草の吸い方に夢中になっていたのかもしれないし、はたまた男の手からこぼれ落ちる吸いかけの煙草を狙っているだけなのかもしれない。
料理は予想通り最低だったので、満足して店を出る。これでもし、いきなり目玉の飛び出るほどちゃんとした絶品の料理が出てきたら、かえってココロが疲れちゃう。これでいいのだ。

貧しいイタリア移民が最初に降り立ち、粗末な家を建てて独特の町並みを形成したというラ・ボカの街で、直接的に
イタリアの香りを感じることは結局とくになかった。カラフルでおもちゃみたいな町並みは、イタリア的というよりはメキシコ風、南米風だったし、街全体がヨーロッパの様相を誇るブエノスアイレスでは、イタリア系の人々はスペイン系に次いでとても多く、今ではこの町に特に固まって住んでるということもない。そしてこのラ・ボカは100mも歩けばいきなり不穏な、いきなり貧しげな団地街となり、生活雑貨はブエノスの中心から数段安くなり粗末になる。道を行く人々も、まったくの白人が激減してラテン系やアジア系、その中間みたいな人々が増える。すれ違う顔たちはそういう意味ではとても親しみが湧き、思わずホッとするんだけども、それはほんのこちらの片思いで、向うの警戒心や殺気は急増してるからやっぱり恐い。ブエノスのセントラルからちょっと離れたこのあたりは、観光地化したほんの一角を取り囲むようにそんな地域がある訳で、ガイドブックの類いでも夜はぶらつくなと警告している。

ただ、完全に観光地化したその一区画に、いくつも共同アトリエのようなものが見受けられたり、お土産物の露店にもアーティスト直売のハンドクラフトが並んでいたりして、少しだけ、普通の観光地とは趣きが違う。南米唯一、ヨーロッパみたいな町並みを誇るブエノスアイレス、アルゼンチンではあるが、ヨーロッパのそれと違い音楽家・芸術家への公的なサポートは全く無いと言う。国家にも社会にも、そんな余裕はないということなんだろう。
ただしかし、もしかしたら、だからこそ、アーティストのタマゴ達は、観光客が集まり手早く金になり、そして安く暮らせるここに集まって、土産物で日銭を稼ぎながら暮らしてるのかもしれない。誰も保護してくれないところで、それでもものを作って暮らしたい者は、いつも貧しい人々の中から生まれ、そこからはじめるのだ。貧しさは環境だ。アイテムではないのだ。

 ある夜、ブエノスアイレスで、音楽家の友人から聴いた話。

 昔、貧しい街の、貧しい家の息子は、音楽も音符のひとつも知らずに育ち、幼い頃から場末のカフェをうろついていた。大人達は働きづめでいつも疲れ、子どもの一人歩きをとがめる余裕もなかった。息子はいつしかバンドネオン奏者に魅了され、連夜連日、通いつめた。奏者は子どもに情けもかけず、何も教えることはなかったが、ある日バンドに欠員が出た。少年は名乗り出た。「ぼくならできる」。彼は一音たがわずバンドのレパートリーをこなしたと言う。少年は、その後タンゴを劇的に進化させた男、ピアソラだ。
イェ〜ッ飲もうぜって感じのこんな話も、こんな街ではもしかしたら、茶飯ゴトなんじゃないか。
生き様にそれぐらい迫力のある男や女か、ごろごろいるんじゃないか。
望郷の吹きだまりブエノスアイレスは、そんな不穏な街だった。
続く〜ッ!!!