市川修さん

kaekae2006-02-01

市川修さんが、亡くなったそうですね。

クモ膜下出血で倒れられて、10日間生死の境を彷徨ってのことだったそうです。
もう、頭に血が上って…だなんて、市川さんらしいんだから。
ピアノに触っていた時だったんだろうか。きっと、そうなんだろうな。
そうじゃなかったとしても、同じだろう、きっと。


わたしは薄情者で恩知らずなので、あの人にはお世話になった、と思う人が少ない方かもしれない。
友達に恩情は感じているけど、友達ではない人にあまりそういう感情を残さない。
ただ、誰よりも音楽を愛している人の傍に居るわたしが、音楽のことを彼に教わる以前に、多少なりともその深さや熱や強さを知っていられたことに、ある何人かの人々の言葉とか、情熱とか、そして音自体の存在がある。
京都でふらふらしていた頃、会うごとに酔っては、こんなわたしに音楽のことをやたら懸命に語ってくれたのは大原さんだったし、ライブの感想を訊いてくれては結局、いつもわたしが「飲み下せないこと」を教えてくれたのは登さんだった。登さんとは随分会ってないけど、ほんとに今でも感謝してる。

ジャズが、大人のカッコイイ趣味だと思い込み、生演奏を聴きながらお酒を呑む、イメージの冒険みたいな夜遊びを覚えた頃。あの頃の Sesamo はまだまだ薄汚れていて怪しくて、夜な夜な集まる不良中年達がとても楽しそうに見えるBarだった。そこにまぎれ込んで、マスターの山田さんや常駐する輩どもの恩情を受け、来る日も来る日も末席を汚させて頂いていた。あの頃あの街で徘徊していた、今で言うなら鼻の利くニート、みたいな若いヤツも次ぎから次ぎへと集まっていた。
市川さんは、ほんとうにカッコよかった。
荒ぶる、という言葉があふれ出してくるようなピアノを弾く人だった。
スタンダードを弾いても、ブルースを弾き叩いても、意外なほどすがすがしいオリジナルを弾き奏でても、いつも「節 ぶし」がそこにあった。劇画チックな言い方をすると、荒ぶる魂のピアノ! そんなこッ恥ずかしい形容が似合うくらい、血と泥にたっぷりとまみれたピアノだったと思う。
大きなガタイで Sesamo のアップライトピアノの前で背を丸めると、ピアノに謝ってるみたいな、ピアノに何か懇願してるかのように見えた。


いちど、まだ早くお客さんもいない時間に、指ならしみたいにして市川さんが「Good Bye」を弾いた。
わたしはまだその曲を知らなかったんだけど、その調べの美しさにドキドキした。
夜、11時をまわって、最後のステージをという時、カウンターの顔見知りに向かって リクエストありますか、と言うので、すかさず頼んだ。さっきの! 
「あれは、板橋文男さんの「Good Bye」という曲です」。
そう言って、あらためて、たっぷりと、聴かせてくれた。
泣けるくらい、美しかった。いや泣いた。
ただただ言葉をなくして、眼が濡れることなんて何も恥ずかしくない、と笑えるほど、美しさに泣けた。
当時、市川さんはその店で週に一回は演奏していて、わたしは時に友達と飲んで楽しんだり、時にひとりで出かけたりしていたんだけど、ひとりで静かに飲みに行った時だけ、市川さんはわたしの顔を見ると黙って「Good Bye」を弾いてくれた。わたしはいつも、市川さんの丸い背中を見ながら聴いて、飲んだ。


市川さんは、わたしに名前を何度も尋ねた。訊いてはその漢字で「ああ、あの」と思い出し、名前を褒めてくれた。何回も訊くのは、なんだか照れ隠しみたいでもあった。というのは、お子さんが生まれた時、男友達と連名で日本酒を贈ったら、そののし紙の送り名主を見て即座にわたしにお礼を言いにきてくれたからだ。律儀な人なのだ。


熱い男、市川さんは、いろんな場面で怒り心頭になっているのを見かけた。
自分より強い立場の人にも間違ってると思ったら直言し、弱い立場の人にも堂々と、声を荒げていかっていた。
若い人にあんなにちゃんといかれていたのは、ほかでもない、音楽を信じて、若い人をほんとに大事にしてたからだ。


 わたしはすっかり生演奏のある店に飲みに行く、ということをしなくなった。
Sesamo は居心地の良さと酒や料理のうまさからどんどん若者が集まる店となり、生演奏が主役の店ではなくなっていった。音楽の嗜好もシフトしはじめ、どうしても生演奏をBGMとして飲むことができなくなってしまった。

でも、あの、丸い背中をぼんやりとみつめながらビールをすすり、あんな情熱むき出しのピアノをまるごと聴きひたることができた時代があったので、いまもわたしは「したり顔でジャズをけなすような大人」には成らなくてすんでいる。

お葬式にも行けないし、今居るこの街で一緒に思い出話のできる相手もいないので、なんだか実感がわかない。
ぽかーんとして、見えない穴を覗いてるみたいな気がする。きっと、まわりにいた、市川さんをもっとちゃんと理解し、共に生きた人々が、お弔いなさることと思う。それにはわたしは、かなわない。


市川さんはきっと、あの人に会いたかった、あの人にお礼を言いたかったと、きっと夢の中で芳枝さんにこぼして、奥さんを困らせているだろうな。わたしは市川さんの、そんな忙しい走馬灯には入り込んでいないと思うんだけど、それでちょっとホッとする。わたしには、あの人が聴かせてくれた音楽が、ずっと奥に残っている。あの人の未練にはコミットしていない。それでいい。それでイイと思う。だからわたしは、素直に、でもこころから感謝して、お礼が言える。
あとからそっちへ行ったら、あらためて、たっぷりありがとう、と言います。


それまで、そっちでお元気で・・・。