「森の向うの、やさしいおじいちゃんとおばあちゃんに会いにゆくの。

 水曜から今夕まで、二泊三日で北オーストリアの友人実家にお邪魔してきた。
我が家がまるごとお世話になっておる、エッケさんの実家へ奥様に案内して頂きまして。
ウィーン西駅から本線で3時間弱、それから更に、一両編成の電車でドンドコドコドコ…。たどり着いたのはまさしく「森の向う」。
(タイトルはもちろん香音の名言)

話に聞いていた通り、エッケのご両親はほんとに素敵な「オーストリアの老夫妻」だった。
学校の先生をしていたおじいちゃんは、若い頃から続けていた木工を退職後のライフワークとして、各種楽器のリペアから木管楽器の製作をしておられ、自宅の作業場はそこはかとなく懐かしさがあふれていた。いろんな楽器を見せて頂き、色々質問していると更にあらゆる「道具」を見せてくださり、道具フェチのわたしとしては実はヨダレをこらえながらの謁見だったのはナイショの話
元教員のオジイチャマは、やはりそこらの爺さんと違ってわたしに解るように説明する、ということをとても大事にしてくれるので、いくら話していても困らないし疲れない。こんな先生に習いたかったなー、いやこんなお爺ちゃんの孫になりたかったんわん。。。「嫁」のYUKAさんが羨ましいひとときでもあったのでした。

そんな素敵なオジイチャマとラベンダー色の髪飾りが素敵なオバアチャマは、目に入れても痛くない孫達を前にしてもなお、それにもおとらぬ配慮と愛情を香音に注いで下さり、それもほんとうに感謝感激な時間であった。たどたどしい香音のドイツ語、なんども同じ質問を繰り返す香音特有の「会話」を、ほんっっっっとうにイヤな顔ひとつせず、話疲れなど微塵と見せず、延々「そうよ、そうよ」と話し相手になって続けて下さった日々。
事細かに「すみません」「ありがとう」を伝え続ける日本風の「おつきあい」をしなくていいのは私にはとっても助かるのだけど、それでももう、根気よく、そして慈愛と興味を持って見守って下さるおふたりに、本当に来て良かったと、感激と感謝で思わず食欲まで増してしまった。
オジイチャマなど、私に「反復して問う、ということは、学習していると言うことだし、知ると言うことへの力の現れなのだから、とっても大切なことですよ」と、香音を弁護するように言って下さった。毎日同じ問いで質問攻めにされてると、いい加減疲れたりうんざりしたりしてしまうんだけど、オジイチャマにそう言われると妙に納得と感謝の気持が湧いてくるから有り難い。
格別の居心地の良さを感じながら考えてみると、ちょっとした香音のしぐさをじっと見つめるオジイチャマの眼差しとか、香音が本を眺めながらおしゃべりするのに真っ向からつき合って下さるオバアチャマを見ると、日本の老人ってもっと疲れてるよな、と思う。
この世代の人達と時どき子連れでお会いする機会があると、どうしても対峙しなくてはいけないのが老人達の困惑の表情だ。日本の老人は、三日も一緒にいるとまず、ご自分の体調の異常や不調を訴える。三日どころか3時間も一緒にいたら、その人の持病を名前だけでも聞かされるんじゃないか。そしてまた、自分の孫や自分の知っている「子ども」と香音が違うと、老人達はいつも困惑する。香音の「遅れ具合」については、不躾な質問は若い人より年長者の方が遥かに多かった。そして絞り出すように発されるのが、「そのうち普通に歩けるようになるよ」「大丈夫、普通になるよ」という励まし、慰め。普通がいちばん、普通が絶対条件。だからこその慰め方、励まし方。
何らかの“肩入れ”があるからこそ、そんな言葉が出てくるのかもしれない。愛情あってこそ、言葉尻を気にせず本意を汲んで、感謝するべきなのかもしれない。かく言う私だって、人並みに認めて欲しいと日頃から願っていたのなら、それは嬉しく有り難いアプローチだったのかもしれない。・・・けど、正直なところ、そういう老人と会うと、なんとも疲れて早く帰りたくなったのが実際のところだった。
普通ってナンだよ、何と誰と比べて偉そうなこと言ってんだよ。平均にできんのがそんなに立派なのかよ。
小さい命をめい一杯ふりしぼる子ども達を見ているので、すっかり私は憎たらしい老人に冷酷に成ってしまっている。

大人の成れの果てと考えると、日本の老人は幼くないかと思う。
瞳の澄んだ老人と会う旅で、そんなことをふと思ってしまった。





渓谷や小川で、体型の老化(@運動不足故)も忘れて泳ぎ、中欧に延々続く田園風景の“変わらなさ”にため息と満足を覚えて、香音と居ると自分の勝手さも見えるし、時にはこうして人々の優しさが、こんなにも如述に映し出されるんだなと実感できる、ほんとに何かを洗濯できる3日間だった。

帰りの電車も帰宅後も、「イクミくんにあいたくってたまらなくなってきた」「パパにあいたい」「もりのおばあちゃんにあいたい。おじいちゃんにあいたい」とベソをかく香音。どうやら、楽しかった時間、にぎやかな時間のあとに訪れる“寂寥感”を獲得してしまったみたいだ。小さな胸をそんな思いで潰されるのは忍びないけれど、その寂寥感って、これから音楽を聴いたり文学や映画を鑑賞したりするのにとっても大切なのだ。そして誰かと関係を築く上でもそれはとても重要なのだ。人がいなくなると寂しい。これは学ぶべきなんだ。そう思い、そうだね、そうだよ、ママも会いたいよ、と言いながら敢えて淡々と、泣く香音と向き合っていた。