水曜日 ホルト初日とアイスクリーム

 今日はシューレが正午まで。私らはお迎えに行かずホルトのレナーテ夫人が迎えに出向き、連れ帰って下さる。初日なのでランチを食べて少しした頃にお迎えに行こう、ということにして、1時半とお約束。
学校の書類関係はすっかり担任チームに面倒見てもらったけれど、ホルトの書類は山積みだ。いつも甘えてばかりで申し訳ないけれどこういう時はYUKA先生におすがりさせて頂くしかない。幸いお時間がお有りだったので、貢ぎ物の水戸納豆を携えて伺う。日曜大工中のYUKA先生のお手を止め、しばし書類と格闘。
お役所言葉と言うか、なんとも古めかしくやたら難解な単語が多く先生を困らせる書類達。内橋さんはあまりにも解らなすぎて、隣で新聞を眺めてみたり帰宅したご次男と漢字学習対決してみたりして時間をつぶしている。流れ作業的にサインして。あっと言う間に二時間経って、おでこを床にこすりつけながら感謝して、額から流血しながらYUKA家をあとにする。
さて希林先生のところはいかがであろうか。
毛筆で威厳と書いたような佇まいの希林先生は、いかように香音を料理あそばしたであろうか。
迎えに行って、教室を覗くと、十数人のお嬢ちゃん達が宿題やお絵描きをしていた。香音は希林先生の隣で、直々に何かを指導されていた。神妙な面持ちの香音。鉛筆を手に抽象画を描いている(いやグチャグチャッと何かを描いている)。そっと覗いたら、香音より先に希林先生が私に気づき、なんと露骨にがっかりされる。!。
あらま、何でしょう…と軽く当惑しつつ呼ばれるままにおそばへゆくと、希林先生「早すぎました。今ね、カノンとこのプリントをしようとしていて。ここを描き、ここをこう線を引き、ぜんぜんやらないから一緒にこうして…そしてやっとこう線を。ね。そこでお母さんが来てしまって。もうカノンの集中が切れちゃいました。仕方ない、宿題ですよ。おうちで、お母さんとなさってください」。ひぃ、でも今日は初日だし、1時半って言うことだったので…と言い訳をのたまいつつ、明日はちょっと遅めに来ます、2時でどうでしょう、と訊くと、なぜか希林先生、声をひそめて「…もっと遅くがいいですねぇ。3時くらいがいいですよ」と。“カノンはまだまだ無理だからもっと早くお迎えに来て下さい”と言われること多々だったので、「もっと私に見させろ」的なお申し出に母は驚くことしきり。
しかし香音は、「ヤダヤダ」と拒絶してなかったのもビックリだし、顔をのぞきむとすっかり疲れている。いやぁ、頑張ってたんだね(涙)。唇がカサカサになっていて、帰りがけに「おみずがのみたい」と言う。水場に行くと、赤いコップに白いマジックでチョウチョの絵が描いてあるのを手に取り、「これがわたしのだって」と嬉しそうに言う。シューレと同じく、ほとんどの備品をホルトが用意してくれるんだけど、今日すでにちゃんと「これがあなたのよ」とご用意して頂いているのは嬉しかっただろう。チョウチョの絵は、私が上履きの左右の目印に描いたものに似せてあった。そこに持参した歯ブラシを挿して「喉が渇いたら、いつでもこのコップにお水を注いで飲んだらいいんだよ」と言うと、早速自分でやっていた。お水を飲んだらすっきりして、元気に先生たちとご挨拶をして部屋を出た。他の子ども達はなんだか面食らって、不思議そうに香音を眺めていた。
ホルトを出ると、続いてシューレでも同じクラスのクサニャちゃんがお母さんと出て来た。この子はおしゃれでシャイな美少女である。お母さんは陽に灼けたスポーティなクロアチア人だ。まだ香音と打ち解けていないようだったので、思い切って声をかける。お母さんのティナは話すと英語に切り替えてくれた。きっと、香音は同級生には何かと不思議で不可解だと思うの、できないことが多いし、まだドイツ語もちゃんと話せないし。赤ちゃんのとき心臓手術をして、いろいろ遅くて独特なのね。あなたといつか話せたら、そしてクサニャちゃんに話してもらえたらと思うんだけど…とぶっちゃけてみる。明らかな根回しではあるけれど、一度話せばあとはよほどのことがない限りエクスキューズする必要もなくなるだろうし、先に話した方がきっと後々ラクなはずだ。味方にしちゃうのだ。ティナは美しくキリッとした印象に反してやさしく寛容な反応で、時間を見つけていつか子どもを遊ばせてみましょう、大丈夫、総てこれからだし、ゆっくりゆっくり、なんて言ってくれる。うちの子は人見知りしてるけど、ほんとはもっと活動的な子なのよ、ここの幼稚園に通っていてね、だからホルトもここにしたけど、けど昨日はホルトが嫌だって帰宅して泣いたのよ、先生が合わないって。それもまぁ時間をかけて…そのうち変わると思うわ。それにしてもあのシューレのクラスは最高、この子も私たちもとっても気に入ってるわ、ゆっくりやって行きましょう…。

この私だって、これでも実は人見知りが激しく知らない人は嫌いだなんてすぐ思っちゃう。でも、香音の味方を増やすには、こうしてこちらから開いてゆかないといけないといつも思う。私の人見知りは内心の問題で、接客とかインタビューとか逆に美術モデルとかやってたから、テーマさえあれば知らない人に話を切り出すことは逆に得意なのだ。自分を晒すってことも、自分で範囲をコントロールするのが得意と言えるかもしれない。テーマさえあれば、どうにかできるのだ。人見知りで内心すごく警戒しつつも、それを隠して開けるからこんなとこでこんな生活ができる訳だけど、我ながらそういう性格で良かったと思う。じゃないと、こんなところでやっていけない。
ホルトの前で立ち話をして別れて、我々三人は路面電車の駅までぶらぶらと歩いた。ウィーンの我が朋友ミチと香音の大好きな友達、ミアちゃんとアイスでも食べに行こうと約束したのだ。ミアは香音が幼稚園に通ったヴァルドルフの小学校に今日入学した。入学祝いに一緒にアイス食べに行こう、という訳だ。


目的の路面電車に乗るために、ホルトから10分ばかし歩かねばならない。でもアイスとミアちゃんというキーワードで香音の疲れも吹っ飛んだ模様。
今日は10時過ぎのおやつの時間におせんべいを持たせていた。ちょっとしたご機嫌取り。京都の実家より送って頂いた高級おせんべい。一枚残していたので、歩きながらそれを食べる許可を与える。おやつの時間の話を聞いてみると、おせんべいを喜んで食べていたら隣の男の子に「それはなに?」と訊かれたと言う。香音は「SNACK」と、なぜか英語で答えたと言う。ほんとにそんな会話があったんだろうかと驚きつつ、「おせんべいはお米からできてるんだよ」と言うと、「へぇ。あしたそういうよ」と言う。ほんとかよ(笑)。
「勉強はしなかった」けど(大苦笑)、きょうも楽しかったらしい。満足そうな笑顔だけでもよくわかる。
路面電車で5分ほど行くと、ミチとミアが元気に乗り込んで来た。内橋さんとミチは結構久しぶりの再会である。
お互いの新学期開始のさまを報告し合いつつアイスサロンへ。小腹が減っていたのもあって、なんだかアホみたいにアイスを貪る。内橋さんなんかおかわりしている始末。それにたかる我々も始末におえないが。

ぶらぶら歩いて、公園にも寄って、いっぱい話していたら時間はあっという間に過ぎた。別れ際、公園の脇で男の子が大勢で騒いでいた。小学校の中学年から高学年くらいの年格好のグループがもめていたのだ。東欧系の移民の子が多い。ひとりのへたれっぽい子がすばしっこいガキどもにバカにされ、ちょっかいを出されて憤慨している。止める子もいるけど、ガキどもを本気で非難する子はいない。かなり揉めていたけど、見てる間に結局憤慨するヘタレは帰って行った。内橋さんはこのヘタ少年に異様に共感していた。子どもの世界はなかなか大変ではあるなぁと、お互い内心いろいろ苦い思いを想起しつつ(おそらく)、路面電車に揺られて帰る。
すっかり遅くなったので、家のそばのインドカリー屋の誘惑に負けてしまう。