ウィーン引越物語 (物件発掘編)

 転居、完了致しました(涙)。が、今更ながら経過報告ですよ。


一月某日。ウィーンに引っ越して二度目のお正月であるが、当地で迎えるのははじめて。
年越し@日本外というのは実は生まれてはじめての我々は、テレビのない大晦日に戸惑っていた(笑)。
とはいえ宴会をハシゴしたり京風白味噌のお雑煮を振る舞ったりしつつ、それなりにまったり過ごして松も明けぬ某日。うちの元借り人エリザベートよりメールありて、協議の結果、当該アパートを引き払う決定にたどり着く。もともとここは、エリザベート夫妻が十数年借りていた物件で、一部屋を彼女らが占有することで合法的に我々が又借りできると言う寸法だったのだが、その合法的な折半について半年前から、厳密には一年前から不都合が生じていた。ことあるごとに相談、内約が改訂されたが、まぁ、私なりに咀嚼して言わせてもらうなら、法律に定められた負担を途中で放棄した上、それでも使いたいだけ使わせろと言うのでこっちが見切りをつけました。仕方ない、そろそろ転出すべき時、シオドキだなってことで。

まだまだ慣れぬ異国の地で、物件探しとお引っ越しだなんて気が遠くなるような事業ではあったものの、ここで我慢し続けることが果たして慎ましい生活なのかというとそうでもない気がしてきたし、身近な人々にはかなり愚痴ってきたこの一年半… すっきり独立するのがいいのだ。それが良いのだ…。と、己を励まし奮い立たせて、転居の決心決めたのことよ。


 いくらごちゃごちゃ経緯はあったとしても、一度決めると話はテクニカルな調整ゴトに絡めとられる。
まず、退去は3ヶ月前に予告のことと契約書に明記されている。1月某日通告したところで契約は4月いっぱい、と言うことになる。日本で二ヶ月前通告とかに慣れていた我々には、時間はたっぷりあると思われたが、こちらの人々には「あら急ね」となる。どうも、こっちの人々は優雅であって…っていうよりも、むしろこっちの人はたとえ賃貸の引越でも結構時間をかけて探すようです。ざっと人と話したところ、半年くらいは当たり前、二年かけて見つけたって人もいるくらい。だから、二月上旬の時点でも「(もっと探すために)もうちょっと引き延ばしたら?」って言う人もいて驚いた。ウィーンの物件探しは難しい、年ごとに賃料は上昇してるし、賃貸でも良いところはみんな死んでも手放さないから(あながち大げさな話でもないのだよ、契約によっては同条件での契約の権利を子どもに相続できるとかで、祖父母の頃から借りてるタダみたいな賃貸に住んでる若者も少なくないのだ)物件発掘は至難の業だと言う。誰に聞いても落ち込みそうなくらいの話ばかりである。


確かにウィーンに来てすぐにアパートを探した時、地域と家賃を絞って探したらなかなか思うように見つからなく、一時はどうなることかと途方に暮れた。数週間泊めてもらっていたエリザベート宅がルクセンブルグに引越を控えていて、結局そこに住むことになった訳だけど、あの時は言ってみればココ以外、タイムリミットまでに好物件にたどり着けなかったのだ。エリザベート宅に住めることになった時は暗闇に光明がさしたも同然だったけれど、わずか1年ちょっとで家賃は100ユーロも上がり、その間も問題多発となったので、決して安住の地ではなかったけれど。


 ウィーンの街でもとびきり天井が高く広い住まい。街の中心からすぐで地の利よく、その割には静かでご近所さんは感じが良い。ここの魅力は大きかったし、正直、次の住まいは何かしらレベルダウンするんだから、せめて納得できるところを見つけられますように…。
 正月休みが明けたら早々に、会う人会う人に「住まいを探しています」宣言しまくって、自分でもネット検索をはじめる。
しかし同じ頃、某方面からかなり思い切った仕事が私に舞い込み、久々の仕事、はじめてのメジャー系仕事ということで、そのプレッシャーものしかかってきた。仕事の納期が一月末、優先順位はこっちになるので、物件探しに費やす時間と創作に集中する時間、香音の世話やらに費やす時間をうまく配分しなくちゃいけない。気持ちを切り替えて、例えば不動産屋に行って帰ってきたら、物件のことは一旦忘れて仕事して、時間が来たら香音を迎えに行って寝させるまでは仕事も物件探しも中断して、夜は時間を決めてあれとこれと…。
ごちゃごちゃにならないようにということだけ凄く気をつけて、そのため唯一の我がままとして、もっともうんざりするエリザベートとのメールのやり取りを完全にシャットアウトさせてもらうことにした。結局完全ではなかったけれど、2月にまたアパートを使いたいとか、お金のこととか、いろいろ折衝すべきところがあったんだけど、〆切明けまでは保留にしてもらった。(実際には、快諾しつつ、「これだけ質問」とか言ってちょろちょろ書いて来ておったが)


物件探しではWebサイトを4〜5カ所、新聞系では3誌、不動産屋は合計3件をランダムにチェックし続けた。メールや電話で問い合わせた物件は合計で20件くらいか。1月の電話代は結構な額だった。そうこうしつつ、仕事の納品をどうにか終えた頃、友達経由で一件の情報が入る。


 その朝、香音が4ヶ月だけ通った公立のプリスクール、フォアシューレの同窓生のママが、同じく同窓生のクラスメイト母子が転出する住まいが好物件ではないか?と教えてくれた。その母子は確か秋に引っ越していて、もうそのライオン通りには住んでないんじゃないの?と思ったけれど、とにかく今荷物を運び出しているところのはず、すぐにでも連絡とりなさいと教えてくれる。さっそく電話してメッセージを残すと、夜になってコールバック。子どもが寝かしつけたら旧宅へ行くから、一緒に来る?と言う。その日は徒歩で行けるクラブである某氏のライブにでも行けたらなぁと思っていた日だったけど、取り敢えず好機は逃すべからざるってことで、夜の10時に待ち合わせ、ママ友達でもあるその人、ビオとライオン通りへ向かった。実際にビオがやってきたのは11時半を回っていたけれど。


 それは1月30日だったので、本来ならビオは明日で荷物をすべて運び出さなくちゃいけなかった。が、もしわたしがそこをゲットするとしたら、荷物の運び出しに猶予ができるかもしれない。ビオは11月に転出していたけど、そこに4年ほど一緒に住んでいた元カレが急に「俺、今月中に引っ越すから、残してる荷物片付けろよ」と1月中旬に言い出したらしい。ビオ達の新しい住まいは手狭なので、すぐに処分したくないものをいろいろ残していたらしく、その元カレのことは結構苦々しげに話す。実際は92平米だったけど、このときビオは98平米だと言っていた。それは覚え違いだったんだろうけど、いずれにせよ今の住まいより若干狭くなる寸法。今の住まいは天井がウィーンでも特に高い建物なので、そこと比べるとぐんと狭くなった感じはする。けど、それでも旧式建築なので、新式建築よりも天井は高い。日本的に言う4階、3部屋のうち2部屋は南向き。今の住まいは北向き地上階…この点は特筆すべき差異、長所である。
ビオはそんなに古い住人ではなかったけれど、家賃はかなり安かった。「すぐにあなた達が入るなら、不動産屋は家賃を上げられないわよきっと」と言う。数十ユーロ上がるとしても、それでもまだ格安と言えるかもしれない。夜見ただけでは決めちゃいかんよな、と思いつつ、いやこれは掘り出し物だよ、なかなかないよ、これは…決めるしかなかろうが! 一通り見せて貰った時点で、喉から手が、アダムスファミリーの何かみたいに出てくるのを押さえきれず「ぜひ話を進めておくれ」とビオに何度も頼んでいた。


それまですでに、不動産屋のコンピュータに登録されたばかりの物件を内覧しようとしたらタッチの差で決まってしまいました、というのを何度も何度も経験していたので、そのあとは気が気じゃなかった。翌日不動産屋に連絡してから電話すると約束してくれたビオに、夕方すでにこっちから電話しちゃったり、ハラハラドキドキしていた。


【物件】ライオン通り 4階 92平米 南西向き
 バス(シャワーコーナーあり/トイレ別) キッチン(コンロと流し台のみアリ) 
    個室 大・中・小の3部屋 1,5畳程度の物置部屋アリ(窓付き) 


結局、家賃は相場にあわせて値上がりしてしまったので、管理費込みの価格は今の住まいよりちょぴっと上がる。でも、光熱費が格段に(下手すると半額)安くなりそうで、それを考え合わせると安くなる。
内橋さんに見せてから決めるとか言い出すと絶対逃すだろうし、これまで探した中では条件も一番良い。そして、何かと頼りにさせてもらっているエッケ&YUKA夫妻宅が今までより更に近くなり、大型公園プラターにも近くなり、ついでに仲良しミナちゃん(笑)宅も近くなり、お買い物に重宝していた市場など、生活圏はほぼ変わらない。嗚呼やっぱり、ここしかない…。 


2月に入ると、今度はまったく別方面からまた違った仕事の依頼がやってきた。
インタビューやルポなど合計4本の記事の依頼で納期は月末。取材対象はミュージカルってことで、下調べとお勉強に数週間かけざるを得なかったけど、不動産屋にもビオが話をつけてくれると、幸いにも集中してとりかかることができた。
ウィーン郊外の稽古場に連日通って見学しつつ、アパートの契約までの段取りをこなす。
取材仕事も久しぶりだったから、相当集中しないとエンジンがかからないし、前にもちょっと書いたけどYUKAさんやミナちゃんの協力無しには切り抜けられなかった。それでも引越については物件の目星がついていると言うことで、安心して意識から切り離すことができた。改めて昼間に行くと、結構汚くって問題アリだったとしても。


そう。掘り出しモノ物件ではあったものの、問題が無いわけではなかった。


それがのちのち、管理会社とのちょっとした確執、のちの想像を超える労働を招くものであったとは思いもせず、二月の私は取材に没頭することができたのであった…つづく!