甘いユメと甘くない現実 (引越物語/難航編)

【物件】ライオン通り 4階 92平米 南西向き
 バス(シャワーコーナーあり/トイレ別) キッチン(コンロと流し台のみアリ) 
    個室 大・中・小の3部屋 1,5畳程度の物置部屋アリ(窓付き) 

 二回目にアパートに訪れたのは2月第二週某日お昼過ぎ。
前回同様最寄りの郵便局前で待ち合わせると、ビオは11才の長女と一緒だった。長女はオシャマで気のつく優しい子。長い金髪の三つ編みはいつも忙しい猫のしっぽみたいに揺れ動いている。
はじめて昼間に訪れたライオン通りのアパート。ドアを開けると明るい陽射しが玄関先に…とか言う前に、長女が顔をしかめ両手で鼻と口を覆う。
「くっさああああああい!!!!」
続いて入ったビオ、それに続いた私も連射式に悪臭に襲われる。うげぇぇぇええ!
しかめっ面のままビオは次々と窓を開けながら奥へ進む。悪臭の根源は南向きの中部屋、旧子供部屋だ。


げぇげぇ言いながら、母娘は早口で何か話し、確信しているけど、私にはさっぱりわからない。
いくつかの用無しの棚を貰い受ける話をしながら、容赦ない悪臭を無意識に分析すると、これはあれだ。猫のシット。排泄物、しかもそれが饐えた感じ。古くなった感じ。複数の猫を飼っていたのは以前から聞いていたが、いったい何があったのか。前回の夜の訪問時は、こんなに臭わなかったと思うんだけど。


必要な二、三の話を終えて、ビオはあらためて私にこう断言した。
「あのね、あたしは、もうこの部屋を掃除とかしたくないの。でもこの臭いはヒドいから、管理会社に掃除してもらって。来週あたしの保証金が戻ってくるの。そのあとあなたと管理会社が改めてここで会う段取りはしてあげるから、その時掃除を要求するのよ」
うーん…。
まぁどっちかっつぅと、嫌々ながら素人(ビオ)が掃除するより、むしろプロがガーンと掃除してくれた方が良いよなぁ、とは思いつつ、簡単にYESと言っちゃダメよと私の中のしっかり者が目を覚ます。臭さで。

「うん。私も管理会社が掃除すれば良いと思うよ。その方が私らにも良いと思う。でもさ、あたしゃガイジンでしょ? こういう交渉ごとは難しいのよ。相手も強く出るから。誰かに応援頼まなくちゃいけない…」
我ながらご名答じゃないかと思いつつ困惑のレディを気取ると、逃げ道を与えられてちょっとホッとしたビオは、パッと晴れた顔で“じゃあ一緒に立合ってくれる人を見つけましょうよ”と、次々に共通の知人、特に押しの強そうな人をピックアップする。数人の名前が出たところで、彼女はこのアパートの隣人を思い出した。さっき玄関先で会った奥さんである。


アパートのお隣の奥さんはドイツ人で、元教師の一見生真面目そうなお堅い雰囲気。
だけど実際は、ふたりのアフリカからの養子を育てるとってもおおらかな、優しいお母さんだ。ご主人は華奢で物静かな弁護士さん。物凄くもの静か(笑)なので、ガチャガチャな私らは未だに緊張しちゃうんだけど、正反対のおじさん(例えばケタタマシくって良い人だけどお節介とか)だったら鬱陶しかったかもしれないし、まぁいいのだ。
で、ふたりのお人形みたいな可愛いお嬢ちゃん達が遊び回る横で、ビオと隣の奥さんは作戦会議を開いてくれた。
案の定ふたりの早口の会話にはまったくついて行けなかったけど、要するにこんな感じで作戦は練られた。


 この間まではまったく臭わなかったのに、今では恐ろしく臭いアパート。
 元カレとの云々もありビオは掃除するのも避けたい。
 ビオはステキな入居希望者(我々のこと)も紹介すると言うのに、
 管理会社は何もしないで、それでも結構な手数料を取ろうとしている。
 この管理会社はそもそも結構金にあくどい。
 これには隣人達も日頃から不服。掃除くらい管理会社がするべきだ。
 それくらいきゃつらの責任だ。
 ではこれこれこの日に、隣人も立合ってカエに加勢してやる。



その場で管理会社に電話して、ビオは諸条件を確認し、そして再来週にアパート立ち会いのアポも取ってくれた。私は取材があるので立ち会いは再来週が良い、ということで(実際にはビオの保証金返還を見越して)アポはその場で取り付けられた。隣の奥さんの立ち会いは、英語ができない相手の担当者には大助かりってことで、(実際には交渉対策とも知らず)快諾された。
隣の奥さんは公園などで香音を覚えていらっしゃり、わたしたちが越してくることを歓迎して下さっていて、喜んで加勢しましょう、管理会社は何もしないで家賃も上げるし手数料も取るなんてひどいわね! と笑顔で言って下さった。



…が。

約束の日に、奥さんは来なかった。
あとで聞いたら子どもたちの行ってる幼稚園で、緊急にミーティングがあったんだとか。
半泣きに成りながら、わたしはひとりで管理会社のデブおやじとアパートに入った。


「カッタストローッフ!」管理会社のおやっさんは何度もそう言った。退去者がしているはずの掃除が今イチで、部屋は汚く、窓は開いたまま、その上異臭が立ちこめていたから。
わたしはビオに言われたとおり(言われるまでもないけど)臭いに顔を歪め、うへぇと精一杯アピールする。これはひどいですね、いやひどい。
おっさんは“こんなのは通常ではない”と言わんばかりに「カッタストローッフ!」を繰り返していて、暗に“これは我々の不祥事ではなく前居住者の怠慢である”ことを暗喩する。理屈で攻められない私は、「私は猫アレルギーがありまして、この状態は受け入れられません」と訴えた。
もともと猫アレルギーはあるのだけど、もちろん劇症ではない。しかしここは強調しなくちゃと、バカみたいに何度も何度もくしゃみをしてみせた。


日本じゃくしゃみは「はっくしょん」、こっちでは「ハーッチ!」であるが、こちとらカタコトのドイツ語で話すガイジンであるからして、もともと会話は総てギクシャクしている。その上で偽物のくしゃみをしたって、ある意味フィルターのかかったコミュニケーションだから気にならない。隣の奥さんも来なかったってことで、私はおもいっきり偽物のくしゃみを繰り返した。なんせ掃除がかかっているんだから。「はーっくしょん! あぁ、ダメだ、これじゃダメですよ、ズルズル、わたし猫アレルギーですよ、ズルズル、掃除を、してくれなくっちゃ、っくしょん!」ってな具合に。
結局、トイレの割れた窓ガラス、床板がダメになっているとこ一カ所の修理、そして掃除、この3つは約束すると断言してくれた。おっさんは窓を開けたままにしてアパートを出た。


窓を開けたままにするのは、通りに市電も車も走ってるから気が進まなかったけど、臭いが壁や天井に染み付くことも考えられるから仕方ないか…と思いつつ、一応約束を取り付けられたのでホッとしておっさんと別れた。契約は再来週、私の〆切を終えてから。管理会社もその間に掃除と修理を発注する…。


しかしこの時点で、ビオが電話で確認してくれた時より10ユーロ家賃が高くなっていた。
これは食下がって訂正してもらったけど、もともと「値切る交渉の余地あり」と言われていて、最後に5ユーロだけ下げてもらえたけども、“一度10ユーロ上がってるので”結局大して値切れなかった感が残った。今思い出してもなめられてたなぁ、と思う。ちぇっ。


翌日、香音を学校に送ったあと、道ばたでビオと出くわした。
ビオは私の顔を見るなり切羽詰まった顔で開口一番、「あなた、不動産屋に私に掃除させろと言った??」あぁやっぱり。人間、言い難いことは人のせいにして言ったりするんだろうなぁ。これだから邪魔臭いんだよ…。そもそもお前が掃除するのが筋なんだよ、とは決して言わず、「あのさ、これは臭い、掃除して下さいって言っただけだよ。わたしは管理会社が掃除すれば良いと思っているからね」と言った。それに、隣の奥さん来てくれなかったのよ、ひとりで困ったよ…と言うと、ビオもちょっとクールダウンして、そうよね、管理会社がすべきよね、とちょっとすがる目。管理会社は“ちゃんと掃除しなければ保証金返さねぇ”と脅したらしい。
「おっさんは私への言い訳に、窓がこわれてただけかもって言ってたから、ビオはそれで押し通したら良いんじゃない?」と言うと、彼女はニヤリとした。まったく、勝手なものである。
しかし若干の後ろめたさは有ったのか、テイクアウトの珈琲を奢ってくれたビオは、再度管理会社と戦うのだと威を新たにしていた。


誰でも良いからちゃんと掃除してくれよ…。
ため息とともにビオの後ろ姿を見送る。ったく。
しかし、窓を開けたままになってたら、掃除しても臭いとりが充分できたかどうか、はっきりしないなぁ… 掃除、大丈夫かなぁ… と、不安が残ったまま数日過ぎたところへ、別の友達から思いもよらないオファーが寄せられた。

【物件】ドナウ運河沿い 74平米 北向きながら朝日がたっぷりなので明るい
 中部屋ひとつに小部屋が二つ キッチン、バス、トイレは老朽により要修繕
 物件全般的に未修繕につき、これから改修するが詳細については応相談


ビオと同じく、フォシューレの同窓生の母からのオファーである。厳密には夫ハラルド氏の、つい最近の購入物件。老後のために買ったので、すぐにはいらないから誰かに貸したいと言う。ある日曜の朝、朝食に招かれて衝撃のオファーを受け(笑)、歩いてすぐの物件を見に行った。


ライオン通りと同じく旧式建築の、日本風に言うなら二階。窓からはドナウ運河とそれに沿う緑道が見下ろせて、大きめの窓は気持ちいい。改装前のむき出しの壁やボロッちい台所は見慣れないので、「キレイに直すよ」と言われてもピンと来なかったけど、何と言っても家賃がお友達価格で安い。建物自体はライオン通りよりもちょっとだけ立派で、覆いのかかった外壁工事が終われば結構なものかもしれない。が、運河沿いには幹線道路があって、窓を開けると結構うるさかった。せっかくの眺めだけど、意外とそれは気になった。もちろん東京の環七とかナントカとはまったく違うけど、でも窓を開けてしばらくしたら無意識に(もう閉めよう)と思っちゃう。高速道路に繋がってるから、休日や深夜でも通行量はそこそこありそうだ。そして、結構な改修があるはずなんだけど、それが果たして我々のリミットに間に合うか心配でもあった。ハラルドは大丈夫と言う。だけど彼個人で手配して自分でやることも含めると、期限がちょっと心配。なぜなら彼んちには3月に第三子が生まれる。

ああ、でも安い。

こう見えても、こんな私でも、常日頃「わがままな生き方をしているのだ。だからできるだけ質素に生きるべきだ」と思ってはいるのです。ただそれが下手なんです。
だからこの時も大いに悩みました。


帰り道、ライオン通りまで歩いて日曜午前のストリートの様子を見てみた。
市電が走っているとは言え、日曜の交通量は少なく、思いのほか静かだった。100m先にフンデルトワッサーハウスが有って、日曜でも観光客が来ると言うことでウィーンの人には賑やかなんじゃない?と思われているが、実際ヒト気があるのはその一角だけでアパートの傍は静かなもんだった。
ただ、やはり窓は開いていて、思い出すだけでおえっと来るあの臭いが気にかかる。もしかしたら、私は自分自身がくっせぇ時もあるかもしれないからあんまり大きな声では言えないけど、私は臭いに敏感な方だと思う。旅先でどうしても掃除の洗剤臭がヒドくて数時間寝込んだこともある。だからあの、アパートに立ちこめていた猫の何かの臭いは「もし、ちょっとでも残ってたら…」と思うだけでも憂鬱だった。かなり、憂鬱だった。


脱臭が心配なライオン通り。
改装が無事済むのか心配な運河沿い。


この時は、いろんな人に相談してみたりして数日悩んだけど、結局、内橋さんのひと言が決め手になった。
「友達のところはまた、何かと気苦労あるだろうからやめとこう」。
そう。日本人は気遣いが多い。のではない。欧州人だって気を遣う。が、それがズレる。相手が気を遣わないので問題が起きる、のではなく、自分の気遣いと相手の気遣いがズレることがストレスになるのだ。だって、気になることが文化的に違うのだ。どっちかが無神経なんじゃなくって、神経が違うんだ。…個人差は、あるけれど…。



もちろん、友達の持ち物を好意と共に借りると言うのは、マイノリティとして暮らす我々には格別に有り難いこともあるだろう。でもその分、不具合もないはずがない。
いろいろ考えて、ライオン通りが相場的にはお買い得ならぬお借り得であったことにも立ち返り、やはりライオン通りに決めることにした。


わたしは世界選手権クラスのポジティブ指向者なので、そう決めるとやっぱり「これで、イイノダ」と、ふつふつと実感した。
ライオン通りの物件の契約内容は「無期限契約の借り主」である。近頃のウィーンでは、場合によってこの契約もレアらしい。自力で探した期間には、同じ価格帯ではもっと狭いか遠い物件しか無かった。しかもそれらすら、あっという間にほかに取られていた。ライオン通りの物件は掘り出し物だったのだ。運河沿い物件はそれを再確認させてくれる当て馬になってくれた。


決心を告げに行くと、ハラルドの妻のアンゲリカは笑顔で頷いてくれた。
「残念だけど、ライオン通りもいいところだしね」。
陽当たりの良い部屋、充分な広さの部屋、使い勝手の良い間取り。
あの臭いさえ失せてくれれば、申し分などないはずなのだ。


…はずだった。




大仕事の〆切を無事(有事)終え、やっとこぎ着けた契約の日。

そこには有った。無くなってるはずのあの悪臭が。

泣きたい気持ちで絶句する私に、管理会社のオヤジは冷たかった。  つづく!



*(次回予告! 引越物語 格闘編 床との戦い、それは人生。それは学習(笑)。)